「言葉の一々である」

 ことば、言葉、コトバ、いま「ことば」の渦中にある。神、神々、霊、仏、に四囲を囲まれている。
 学生時代からの関心事が一同に会した。
 いくつもの偶然が重なっていまに至った。私に系統だった読書ができるはずもなく、道順を聞く人もいなかった。が、インターネットには、ずいぶん助けられた。
 井筒俊彦は、「存在はコトバである」と措定した。「ことば」が一気に心底にまで達した。思いもよらぬことだった。これ以上の慶事はなかった。私の趣向のすべてが一括りに括られた。

◇ 河合隼雄『明恵 夢を生きる』京都松柏社
は、1987/04/25 に出版され、間もなく読んだ。学生時代のことだった。明恵上人を知り、白洲正子を知った。井筒俊彦と出会い、はじめて華厳の世界に触れた。「華厳の世界」(284-290頁)に引かれた井筒俊彦の文章は明晰だった。コピーしてもち歩いた。
そして、
◇ 井筒俊彦『叡智の台座 ー 井筒俊彦対談集』岩波書店
を求めた。河合隼雄がとりもつ縁だった。しかし、それ以降井筒との接点はなかった。

2018/01/22 のブログには、
井筒俊彦『東洋哲学覚書 意識の形而上学 ー『大乗起信論』の哲学』中公文庫
 週末を読書に充てた。
 井筒俊彦を読むということは、
「一文を読み、その文の理解が適当であったかどうかを、以下に続く文章を丹念に読むことによって、確認しながら歩を進めるということ」
だった。
 私にとっては持ち重りのするものだった。意を尽くして書かれた『覚書』だったが、おぼつかなく、再読を促されている。
 詳細は後日あらためて、ということにさせていただく。
とあり、
また、2018/01/19 のブログには、
「井筒俊彦というさやけさのなかで_井筒俊彦 読書覚書」
 井筒俊彦の文章には彩(あや)がある。論文に私情をはさむことは許されないが、井筒俊彦の精緻な文章には、自ずからなる情(こころ)がある。明晰な文の重なりのなかで、文章は美しい形をなす。
 井筒俊彦というさやけさのなかにあることを、私は好む。
とある。
 入院中だった父の病室で読んだ記憶がある。Amazon の「注文履歴」を見ると、その後井筒俊彦づいていることが分かる。わずか三年あまりのおつき合いにしかならない事実に慌てている。
 ここ数年で小林秀雄の文章が読んで解るようになり、白洲正子の文章をまとめて読むようになった。小林秀雄についていえば、活字はあきらめ講演のテープを学生時代から聞いていた。岡潔ならば、情緒が深まった、というだろう。
 すべては学生時代に端を発していることはおもしろい。
 これは遺書である。還暦を目前にして遺した言葉の一々である。
 いましきりに古社寺巡りをしたいと思う。巡礼の旅に出たいと思う。社寺に郷愁を覚える。