司馬遼太郎『この国のかたち 五「神道」』文春文庫

 一昨日には、白川静「中国の神話 ー 奪われたものがたり」中の、190字の作文に苦戦し、まる一日を要した。辛酸を嘗めた。そして昨日、
◇ 司馬遼太郎『この国のかたち 五』文春文庫
「神 道 (一)〜(七)」
◇ 中沢新一『古代から来た未来人 折口信夫』ちくまプリマー新書
「第五章 大いなる転回」
「第六章 心の未来のための設計図」
◇ 白川静『初期万葉論』中公文庫
「第一章 比較文学の方法 二 発想と表現」
「第四章 叙景歌の成立 三 見れど飽かぬ」
を読んだ。いずれも再読、三読目である。

司馬遼太郎『この国のかたち 五』文春文庫
「神 道 (一) 」
  神道に、教祖も教義もない。
 たとえばこの島々にいた古代人たちは、地面に顔を出した岩の露頭ひとつにも底(そこ)つ磐根(いわね)の大きさをおもい、奇異を感じた。
 畏(おそ)れを覚えればすぐ、そのまわりを清め、みだりに足を踏み入れてけがさぬようにした。それが、神道だった。
 むろん、社殿は必要としない。社殿は、はるかな後世、仏教が伝わってくると、それを見習ってできた風である。
 三輪(みわ)の神は、山である。大和盆地の奥にある円錐(えんすい)形の丘陵そのものが、古代以来、神でありつづけている。
 ここに唐破風造(からはふづくり)の壮麗な拝殿ができたのは、ごく近世(江戸中期)のことにすぎない。(9-10頁)

古神道には、神から現世の利をねだるという現世利益(げんぜりやく)の卑しさはなかった。(11頁)

「神 道 (四) 」
 げんに、(伊勢神宮の)内宮・外宮の社殿建築をみても、大陸からの影響はない。宇宙のしんを感じさせるほどに質朴簡素である。
(中略)
 正殿の棟に、十個のふとい堅魚木(かつおぎ)が載せられている。装飾といえば、これくらいのものである。それも棟をおさえる実用材であるとすれば、まことに禁欲的な造形というほかない。(41頁)

「神 道 (三)」
 伊勢神宮の遷宮の儀は、夜、老杉の森の闇のなかでおこなわれる。
 一夜明けて翌朝、おなじ境内に入り、新しい宮居がかがやいているのをみたとき、たれもが、その若々しさに圧倒される。すべてヒノキ材で組まれた簡潔この上ない構造物だけに、宮居も神垣も、誕生したばかりのいのちの威厳を感じさせ、見ていると、浴びているような感じがする。(33頁)

「神 道 (四)
 平安末期に世をすごした西行(1118〜90)も、(伊勢神宮に)参拝をした。
「何事(なにごと)のおはしますをば知らねども辱(かたじけな)さの涙こぼるゝ」
 というかれの歌は、いかにも古神道の風韻をつたえている。その空間が清浄にされ、よく斎かれていれば、すでに神がおわすということである。神名を問うなど、余計なことであった。
 むろん西行は若いころ北面の武士という宮廷の武官だったし、当代随一の教養人でもある上、伊勢では若い神官たちに乞われて歌会も催しているのである。 “何事のおはします” かを知らないどころではなかった。(44頁)

 2020/11/16 に、はじめて伊勢神宮を参拝した
 境内に一歩足を踏み入れれば、西行ならずとも、人は、「何事のおはします」かを想い、「辱さ」を感じるだろう。参拝し、また参拝する人の姿を目の当たりにするのは尊いことである。
 歩いているうちに鎮まり、次第に口を開くのが嫌になった。そしてついに、緘黙症に罹った。これが本来の姿のような気がした。饒舌は身の毒であることを知った。
 伊勢神宮は一編の詩だった。
 収束を待って早い時期に参拝しようと思っている。

「神 道 (三)」
 古神道というのは、真水(まみず)のようにすっきりとして平明である。
 教義などはなく、ただその一角を清らかにしておけば、すでにそこに神が在(おわ)す。
 例として、滝原の宮(瀧原宮)がいちばんいい。
 滝原は、あまり人に知られていない。伊勢(三重県)にある。伊勢神宮の西南西、直線にして三十キロほどの山中にあって、老杉の森にかこまれ、伊勢神宮をそっくり小型にしたような境域に鎮まっている。
 場所はさほど広くない。
 森の中の空閑地一面に、てのひらほどの白い河原石が敷きつめられている。一隅にしゃがむと、無数の白い石の上を、風がさざなみだって吹いてゆき、簡素この上ない。(28-29頁)

 次回のお伊勢参りは、滝原の宮(瀧原宮)参拝と一対である。