白洲正子「小林秀雄と骨董と文章と」

「小林秀雄の骨董」
白洲正子『遊鬼 わが師 わが友』新潮文庫
「当麻(たえま)」という作品の中に、次のような言葉がある。
 「美しい〈花〉がある、〈花〉の美しさといふ様なものはない」
  これは世阿弥(ぜあみ)の「花」について語ったもので、その前に、「物数を極めて、工夫を尽して後、花の失(う)せぬところを知るべし」という花伝書の一節があるのだが、この美しい「花」を、「物」に置き換えてみれば、小林さんが美についてどういう考えを持っていたか、知ることができる。
 ーー「美しい物がある、物の美しさという様なものはない」そこには叩(たた)けばピンと鳴る手応(てごた)えがあるだけで、あいまいなものは何一つ認められない。物の美しさについて、人はきりなく喋(しゃ)べることができようが、美しい物は沈黙を強いる。小林さんは終始、そこだけに焦点をしぼって書いた作家である。相手は骨董でも文学でも絵画でも変りはなかった。沈黙したものを対象に、無理に口を開かせようとはせず、我慢に我慢を重ねてつき合った後、向うが自然に秘密を明かす時まで待つ。小林さんはいつか私に、自分はある時期ものが書けなくなって、数年間黙っていたことがあるといった。何時(いつ)のことだか私は知らないが、それが骨董に熱中していた期間ではなかったであろうか。(60-61頁)

「無常といふ事」が出版されたのは昭和二十一年だが、この連載を書いたのは戦争中(昭和十七年 - 文學界)で、あきらかにそれ以前の作品とは違っている。
(中略)
そのことが直接骨董と関係があるとは言い切れないが、それまでの難解で、硬質な文体とは打って変わって、李朝の陶器に見られるような、えもいわれぬ優しさと、そこはかとない悲しみに満ちており、多くの読者をとらえたのは事実である。少しも感傷的なところのない、それ故(ゆえ)にいっそう人の心を打つ優しさと悲しみは、後に「モオツァルト」の tristesse allante に受けつがれ、「本居宣長(もとおりのりなが)」の物のあはれに開花して、小林さんの文学の主調音となった。
 小林が骨董をやっていなかったら、どうなっていただろう、と青山(二郎)さんはしばしばいい、私は青山さんの自慢話だと思って聞き流していたが、今はそうは思わない。フランス文学に育(はぐ)くまれた明晰(めいせき)この上ない頭脳の持主が、人間の欲望と執着心にまみれた煩悩(ぼんのう)の世界に耽溺(たんでき)したことは、大きな意味があったと信じている。それはいわば馬鹿になってはじめから出直すことだった。(65-66頁)