シリーズ授業「ひとへに風の前の塵に同じ」
今日の午前中には、中二生と『平家物語』の冒頭部分を読みました。註を参照し、原文と現代語訳を照らし合わせながら読み進めるといった、「仏教の無常感」についての、ごくつまらない授業に終始しました。が、今時のお子様たちとのおつき合いには、すべてを負って立つといった覚悟が必要です。
その時々に頭に浮かんだ言葉を、中学生の理解できる言葉に、いちいち翻訳しなければなりませんが、とっさに上手い訳語がみつかるはずもなく失語症に陥ります。
「ひとへに風の前の塵に同じ」には、痛く感じ入りました。自分を塵芥の類と思えば、平安が訪れますが、「塵」」のすぐ後には、「塵にも五分の魂」と続きますので厄介です。
その際には、小林秀雄の「無常という事」についての二、三の発言が思い浮かびましたが、余計なことは口にしませんでした。私の翻訳能力をはるかに超えたものですし、翻訳なぞはもってのほか、というくらいの心得は私にもあります。
追伸:
対策授業の準備を終え、三連休を迎えました。あとは授業をするだけですので気が楽です。
以下、
小林秀雄「無常の思想の如きは、時代の果敢無(はかな)い意匠に過ぎぬ」
です。
その時々に頭に浮かんだ言葉を、中学生の理解できる言葉に、いちいち翻訳しなければなりませんが、とっさに上手い訳語がみつかるはずもなく失語症に陥ります。
「ひとへに風の前の塵に同じ」には、痛く感じ入りました。自分を塵芥の類と思えば、平安が訪れますが、「塵」」のすぐ後には、「塵にも五分の魂」と続きますので厄介です。
小林秀雄『平家物語』
小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫
「成る程、佐々木四郎は、先がけの勲功を立てずば生きてあらじ、と頼朝の前で誓うのであるが、その調子には少しも悲壮なものはない。勿論(もちろん)感傷的なものもない。傍若無人な無邪気さがあり、気持ちのよい無頓着さがある。人々は、「あっぱれ荒涼な(大口をたたく意)申しやうかな」、と言うのである。頼朝が四郎に生食(「いけずき」という名の名馬)をやるのも気紛(きまぐ)れに過ぎない。無造作にやって了(しま)う。」(143-144頁)
「(『平家物語』の)一種の哀調は、この作の叙事詩としての驚くべき純粋さから来るのであって、仏教思想という様なものから来るのではない。「平家」の作者達の厭人(えんじん)も厭世(えんせい)もない詩魂から見れば、当時の無常の思想の如(ごと)きは、時代の果敢無(はかな)い意匠に過ぎぬ。鎌倉文化も風俗も手玉に取られ、……」(147頁)
その際には、小林秀雄の「無常という事」についての二、三の発言が思い浮かびましたが、余計なことは口にしませんでした。私の翻訳能力をはるかに超えたものですし、翻訳なぞはもってのほか、というくらいの心得は私にもあります。
追伸:
対策授業の準備を終え、三連休を迎えました。あとは授業をするだけですので気が楽です。
以下、
小林秀雄「無常の思想の如きは、時代の果敢無(はかな)い意匠に過ぎぬ」
です。