白洲正子「三月一日の夜半すぎ」

「小林秀雄の骨董」
白洲正子『遊鬼 わが師 わが友』新潮文庫
 三月一日の夜半すぎ、電話を貰(もら)って私は雨戸をあけた。空には十六夜(いざよい)の月がかがやき、梅の香りがただよっていた。私たちが病院へ駆けつけた時、小林さんは、既に亡(な)く、二、三の家族だけが静かに最期(さいご)をみとっていた。その死顔は穏やかで、やっと俺も休むことができると、呟(つぶや)いているようであった。私は、「涅槃(ねはん)」ということの意味をはじめて知った心地がして、思わず手を合わせた。(67-68頁)
(「新潮」昭和五十八年四月臨時増刊号)