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11月, 2016の投稿を表示しています

天人 深代惇郎「ざっくばらん」

「旧制三高」 深代惇郎『深代惇郎の天声人語』朝日文庫(337頁) 京大教授の梅棹忠夫さんが「きらいなもの」を聞かれ、「ざっくばらんが大きらい」と答えているのも面白い。ざっくばらんとは、つまり野蛮なのだろう。 拝復 P教授様 鄙住まいは、「ざっくばらん」な方たち、「ざっくばらん」な会話ばかりで、力なくヘラヘラ笑ってばかりいます。 ご丁寧なご返信、どうもありがとうございました。 時節柄くれぐれもご自愛ください。 TAKE IT EASE ! FROM HONDA WITH LOVE.

白洲正子『遊鬼 わが師 わが友』新潮文庫_まとめて

◆ 左上の「メニューボタン」をクリックしてください。「サイドバー」が開きます。 ◆ 右上には「検索窓」があります。 ◆ 青色の文字列にはリンクが張ってあります。クリック(タップ)してご覧ください。 ◇  青山二郎「意味も、精神も、すべて形に現れる」 ◇  小林秀雄「梅原さんの言葉は絵なんだ」 ◇  白洲正子「彼らが教えたのは命の限り生きることだった。生を楽しむことであった」 ◇  小林秀雄「それが芸というものだ」 ◇  白洲正子「『かさね色目』_王朝文化は日本の美の源泉」 ◇  白洲正子「遊鬼 鹿島清兵衛」

天人 深代惇郎「志ん生一代」

「志ん生一代」 深代惇郎『深代惇郎の天声人語』朝日文庫(332_333頁) 「エエ、考えるッてぇと、なんでございますな、やっぱり、どうしても、しょうがないもんでしてな、オイ、目のさめるようないい女だよ、まるで空襲警報みたいな女だよ」。  落語の古今亭志ん生が語り出す「まくら」の奔放さは、天下一品だった。意味をなさぬような語り口から、次第にかもし出す味わいは、だれもマネができない。円生が、このライバルを評したそうだ。 「私は志ん生と道場で仕合いをすれば相当に打ちこむことができますが、野天で真剣勝負となると、だいぶ斬られます」(宇野信夫『芸の世界百章』)。端正な芸風をもつ円生が、野天の真剣だとやられそうだといったのは、言う人の眼の立派さにも感心するし、言われた志ん生のうまさもなるほどと思わせる。  彼が住んでいた「なめくじ長屋」の話は有名だが、その体験が、貧乏ばなしを絶品のものにした。塩をふりかけても、五、六寸ぐれえの大なめくじがシッポではじきとばして、神さんのカカトに食いついた、というのは本当の話なのか、どうか。  その志ん生が紫綬褒章をもらったことがある。「シジュホーショーってなんです」と人にきいたら、「世の中のためになった人にくれる勲章だ」というので、びっくり仰天した。「ほかのことならともかく、そんなこと、あたしは身に覚えがねえ」といったので、まるで罪人を捕まえるような話になってしまったという。  脳いっ血で倒れてからは、庭の金魚をみては「丈夫だね。死ぬかと思っても、なかなか死なないね」と、自分を茶化していた。彼の話は、やるたびにちがったものになったが、その逆に、寸分の違いもなくみがき上げた芸を披露したのは、桂文楽だった。二年前、その文楽が死んだときいて、頭からフトンをかぶって泣いた志ん生も、きょうが自分の葬式となった。(48・9・23)

白川静_「泣く子も黙る「漢字」の泰斗の学問人生」

狐『日刊ゲンダイ匿名コラム 水曜日は狐の書評』ちくま文庫 「泣く子も黙る『漢字』の泰斗の学問人生」 白川静著『回思九十年』(平凡社) 白川静、一九一〇年生まれ、字書三部作『字統』『字訓』『字通』によって、また『孔子伝』などの名著によって、泣く子も黙る文字学、古代学の泰斗である。  かつて吉本隆明もこう書いた。「彼の主著『説文新義』の数冊は、わたしの手元にあるが、いまだ手に負えないでいる。(略)かくの如き学徒は乏しいかな。彼の仕事を遠望するとき、流石に、少し泣きべそをかきそうになるのを、禁じえない」  一般書は六十歳になるまで書かなかった。それまでは専門の研究に徹することを自分に課していた。かつて学園紛争のころ、学生たちがバリケード封鎖していた立命館大学の中を、白川静だけはフリーパスで研究室に通っていたという伝説がある。思えば、まだ一般書は書いていない時代であった。白川静が来れば「どうぞ」と通していた学生たちも、なかなか眼力があったといわねばならない。  本書『回思九十年』は、エッセー「わたしの履歴書」と、江藤淳や呉智英をはじめとする面々との対談で編まれた。九十歳になる学者が自分の来歴を語ろうという一冊である。  「私の履歴書」には、やはり前述した「伝説」の時代のことが出てくる。封鎖された研究室棟では、夏など、白川静はステテコ姿で過ごしていたらしい。バリケードをかいくぐって訪ねてきた編集者は、てっきり小使いさんと思い込み、部屋を聞いたという。ステテコ姿の学者は、さらにキャンパスの騒音(学生のアジ演説や学内デモの怒号などであろう)を消すために、謡(うたい)のテープをかけていた。謡を流すと、それが騒音を吸収してくれて、静かに勉強できたそうである。たしかに「かくの如き学徒は乏しいかな」なのである。  作家・酒見賢一との対談で、あらゆる仕事を果たしたあとは、書物の上で遊ぼうと、「大航海時代叢書」全巻を買ってあると語っている。書物の中で大航海時代の世界を旅してみたい。それが先生の夢ですかと尋ねる酒見に、「うん。夢は持っておらんといかん。どんな場合でもね」と白川静は答えている。 (116-117頁) (2000・5・24)

白川静 監修,山本史也 著『神さまがくれた漢字たち』理論社

◇ すべては、「神さま」のために。 「目」のはたらき 白川静 監修,山本史也 著『神さまがくれた漢字たち』理論社  「民(たみ)」すなわち「たみ」は、あるいは「田見(たみ)」という語のうちにその語源を求めることができるのかも知れませんが、その「民(みん)」の漢字の成り立ちには、むしろそのうち(農耕に従事する人、罪を負う人、天皇の財宝とされる人など)の「罪を負う人」のイメージにいくらか通うものがあるようです。「民(みん)」の字は、もとは、大きい矢か針で目を突き刺す形で記されました。おそらく殷王朝を脅かす異族を戦争で捕え、その「人」の「目」に加える処罰を示すものと考えられます。こうして眼睛(まなこ)を失った捕虜のおおぜいは神の僕として仕える身となります。  これらもの見えぬ「民(たみ)」は、音の領域でこそ、残された耳の感覚を研ぎすましてゆきます。その「民(たみ)」の奏でる音曲(おんぎょく)はきっと神の心を限りなく楽しませたにちがいありません。のちそのような盲目の楽人すなわち演奏者は「瞽史(こし)」と呼ばれ、宮廷や各国の王のもとで、宮廷楽のゆたかな伝統を育んでゆくのです。春秋時代に至ってもなおその伝統は継承されます。 (中略) 孔子が、こうまでこまやかな配慮を、盲目の楽人にほどこしているのは、当時なお人々の心のうちに、盲目の「瞽史」を尊重する気風が深々としみついていたからにちがいありません。  日本各地をめぐり歩きながら、三味線の音色を響かせつづけた「瞽女(ごぜ)」もまた、視力に障害をもつ人々の集団でした。そして、その「瞽女」によって、悲哀に満ちた音曲の調べが、民衆の心の底へと浸透します。こうして「目」の「物語」は、わずかに「目」の物語にとどまらず、音楽の「物語」をも紡ぐのです。  「目」を象(かたど)る漢字には、ほかに「臣(しん)」「賢(けん)」「童(どう)」などがあり、それらはみな神に仕える人々を表す文字です。 (30-33頁) ◇ 白川静先生のお名前は存じ上げていましたが、「白川文字学」という言葉にははじめて触れました。 「死」の物語 白川静 監修,山本史也 著『神さまがくれた漢字たち』理論社  人は免れようもなく、この運命的な孤独に身をゆだねなければならなぬときを迎えます。それが「死」というも

白洲正子「『かさね色目』_王朝文化は日本の美の源泉」

「二代の縁 高田倭男」 白洲正子『遊鬼 わが師 わが友』新潮文庫(174-185頁) 白洲正子は、高田倭男の著書『かさね色目』を前に、日本人の美意識を語り、「王朝文化は日本の美の源泉」であることに言及しています。ぜひお手にとってお読みください 。晩秋に似つかわしい一編です。

TWEET「腹ふくるるわざ」

あまざかる鄙(ひな)に五年住まひつつ都の手ぶり忘らえにけり  山上憶良 「あまざかる鄙」の明け暮れは、「もの言は」ず「腹ふくるる」ことばかりです。

「拝復 P教授様_いまなぜ今東光なのか」

今も昔も、そしていつの時代も、「今東光」なのだと思っています。いつの時代も変わらぬものがあって然りです。 今の子どもたちは、それをいとも簡単に乗りこえます。これを現代というのでしょうか。 遠ざかるしかありません。遠ざけるしかありません。 時節柄くれぐれもご自愛ください。 TAKE IT EASY! FROM HONDA WITH LOVE.

白洲正子「遊鬼 鹿島清兵衛」

白洲正子「遊鬼 鹿島清兵衛」 白洲正子『遊鬼 わが師 わが友』新潮文庫 ついでのことにいっておくと、「遊鬼」という題名は、いわば瓢箪(ひょうたん)から駒(こま)が出たようなもので、ある晩、編輯長(へんしゅうちょう)の山崎さんと呑(の)んでいて、清兵衛が(能の)舞台に出て来る時の姿は、「幽鬼」のようだったと私が口走ったのを、山崎さんは(たぶんわざと)聞き間違えて、「遊びの鬼ですね、それは好い題だ」といったので、そのままにしておいたというわけだ。  さて、 鹿島清兵衛の「遊鬼」ぶりであるが、それはまことに徹底したものであった。 (中略) 今の金持とは、大体スケールが違うのである。いくらスケールは大きくても、面白くても、こんな話は書いている間に飽き飽きしてしてしまう。明治二十八年といえば、清兵衛が百物語に招待した前年で、鷗外は新聞紙上で逐一承知していたに拘わらず、全部省略したのは当然のことだろう。 白洲正子『遊鬼 わが師 わが友』新潮文庫(129-132頁)  その素人芸の極まるところ、 鹿島清兵衛の真の姿が現れる。大正十三年夏、万三郎が一世一代の「関寺小町」を舞うというので、笛の役を引受けた清兵衛は、老いさらばえた美女の心境を、笛の音色に表現したいと念じ、粥(かゆ)をすすって自から体力を消耗させた。舞台はみごとに勤めたが、その夜から発熱し、翌日病を押して京都で演能の約束を果した後、東京へ帰って亡くなった。五十九歳であった。ぽん太(清兵衛の妻)も間もなくその跡を追い、四十六年の数奇な運命の幕を閉じた。 白洲正子『遊鬼 わが師 わが友』新潮文庫(135頁) 「遊鬼 鹿島清兵衛」の最晩年 を引用しましたが、白洲正子が「幽鬼」「遊鬼」と称した鹿島清兵衛についての全体像はわかるはずもなく、実際に手にとって読んでいただくしかありません。悪しからず。

白洲正子「彼らが教えたのは命の限り生きることだった。生を楽しむことであった」

「早川幾忠氏を悼(いた)む」 白洲正子『遊鬼 わが師 わが友』新潮文庫(165-166頁)  帰りに私は常寂光寺の境内を歩いてみた。先生の作品で見馴(みな)れた紅葉や築地塀(ついじべい)が、初夏の光をあびて鎮(しず)まっていた。思えばはじめて訪問した時も、今日のように爽(さわ)やかな五月晴(さつきば)れであったが、わずか一年ばかりのお付合いだったのに、生まれる前から存じあげていたような気がしてならない。そういう人物を失ったことは悲しくても、そういう人物に出会えたことを私は幸福とせねばなるまい。小林(秀雄)さんにつづく早川夫妻の死は、私に大きな打撃を与えたが、彼らが教えたのは命の限り生きることだった。生を楽しむことであった。私はみずみずしい紅葉の若葉を仰ぎながら、そこから降りそそぐ光の中に、彼らの視線を感じて、心のひきしまるのを覚えた。

小林秀雄「梅原さんの言葉は絵なんだ」

「北京の空は裂けたか 梅原龍三郎」 白洲正子『遊鬼 わが師 わが友』新潮文庫(187-188頁) それについて思い出すのは、四月に出版された「新潮」の「小林秀雄追悼記念号」に、吉井画廊の吉井長三さんが書いている話である。  ーーある日、吉井さんが、梅原さん(九十代半ば)のお宅へ行くと、先生はこんなことをいわれた。  「今朝起きたら、バラの花がとても美しかった。それで、十五号のカンバスにさらっと描いてみたが、一寸(ちょっと)いいのが出来た。絵具がまだぬれてるので、そこに裏返しにして立て懸けてあるから、よかったら見給(たま)え」  そこで吉井さんは探してみたが、そんな絵はどこにもない。先生は勘違いをされていたのである。その話を小林さんにすると、吉井さんは叱(しか)られた。 「絵は、実際には描いてなかったって? だから何なのだ。勘違いが、おかしいか。…お前はな、それは、大変なことを聞いているんだぞ。判(わか)るか。梅原さんは、行住座臥(ざが)、描いているんだ。筆を持たなくたっても、描いているんだ。常に描いているから勘違いもする。…だいたい、梅原さんの言葉は、もう言葉でない。絵なんだ。言葉が絵なんだ」から、君は大事に聞いて、記録しておけ、といわれたそうである。  小林さんが昂奮(こうふん)している様子が目に見えるようだが、私もこの文章を読んだ時は感動した。 以下、 「小林秀雄、梅原龍三郎と美術を語る」 「小林秀雄、梅原龍三郎とピカソの腕力を語る」 です。

小林秀雄「それが芸というものだ」

「小林秀雄の眼」 白洲正子『遊鬼 わが師 わが友』新潮文庫(57-58頁) 「本居宣長」について、私は失礼なことをいったのを思い出す。今度の宣長は今までの作品とは違って、きらきらしたものが一つもない。だから本を伏せてしまうと、何が書いてあったか忘れてしまう。何故(なぜ)でしょうかと尋ねると、小林さんはこう答えた。 「そういう風に読んでくれればいいのだ。それが芸というものだ」  もうその頃には現代の読者は眼中になく、五十年か百年先の理解者を予想して書いていたのではあるまいか。それにも拘わらず、「本居宣長」は何十万部も売れて、御本人は元より、出版社を唖然(あぜん)とさせた。「では美は信用であるか。さうである」(「真贋」)と小林さんはいう。 ◇ 川村次郎『いまなぜ白洲正子なのか』東京書籍 と 白洲正子『遊鬼 わが師 わが友』新潮文庫 の間には隔たりがあります。「釈然としないものが残ってい」ます。 以下、 『いまなぜ白洲正子なのか』_大野晋編 です。

青山二郎「意味も、精神も、すべて形に現れる」

白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』新潮文庫 人間でも、陶器でも、たしかに魂は見えないところにかくれているが、もしほんとうに存在するものならば、それは外側の形の上に現れずにはおかない。それが青山二郎の信仰であった。 (中略)  何事につけジィちゃん(青山二郎)は、「意味深長」という言葉を嫌っていた。精神は尊重したが、「精神的」なものは認めなかった。意味も、精神も、すべて形に現れる。現れなければそんなものは空な言葉にすぎないと信じていたからだ。これを徹底して考えてみることはむつかしい。生きることはもっとむつかしい。金持になった日本人は、これからは精神の時代だ、などと呑気(のんき)なことをいっているが、相も変らず、夢二の夢から一歩も出ていはしない。 そのようなメタフィジックな物言いは、ごまかすのにはまことに都合のいい言葉で、お茶は「わび」の精神の蔭(かげ)にかくれ、お能は「幽玄」の袖(そで)に姿をくらまし、お花の先生は、蜂(はち)みたいに花の「心」の中で甘い汁を吸う。形が衰弱したからそういうところに逃げるので、逃げていることさえ気がつかないのだから始末に悪い。 (55-56頁) 白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』新潮文庫 おそらく小林(秀雄)さんも、陶器に開眼することによって、同じ経験(沈黙している陶器の力強さと、よけいなことを何一つ思わせないしっかりした形を知ったこと)をしたのであって、それまで文学一辺倒であった作品が、はるかに広い視野を持つようになり、自由な表現が可能になったように思う。小林さんが文章を扱う手つきには、たとえば陶器の職人が土をこねるような気合いがあり、次第に形がととのって行く「景色」が手にとるようにわかる。文章を書くのには、「頭が三分、運動神経が七分」と言い切っていたが、それも陶器から覚えた技術、というより生きかたではなかったであろうか。 (57-58頁) 白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』新潮文庫 『青山二郎の眼 』別冊太陽 日本のこころ 87 「『俺は日本の文化を生きているのだ』が口癖だった男。あまりにも純粋な眼で、本物を見抜いた男。永井龍男、河上徹太郎、大岡昇平といった錚々たる昭和の文士たちの精神的支柱として「青山学院」と呼ばれた男。あいつだけは天才だ、と小林秀雄が嘆じた男。そして

「アクセントの平板化」_「公民」の教科書の一頁を例に

『新編 新しい社会 公民』東京書籍(78頁) 昨日「公民」の教科書を読むのを聞いていました。その際、アクセントの平板化がみられた単語は、 「選挙の課題① −選挙の課題」 政治、棄権、指摘 「選挙の課題②−一票の格差」 得票、当選、 議員、 議会、 判決 の八語でしたが、文中の単語としてではなく、個々別々の単語として発語した場合には、 課題、原因、信頼、関心、大切、投票、人口、重要、最大、平等、状態、改善、 等の言葉にもアクセントの平板化がみられると思います。 中学生の子どもたちは、故意にアクセントを平板化しているわけではなく、我知らずして発語しています 。自覚症状がないだけにことは重大であって、アクセントの平板化はとどまることなく、時流のままに、ということになるのでしょう。子どもたちは、「正しい日本語」には無関心で、「美しい日本語」には無頓着です。 以下、ご参考まで。 国立国語研究所「解説:アクセントの平板化」

「P教授にかこつ」

おはようございます。 朝早くからのほめ殺し、どうもありがとうございました。 昨日はテスト週間中の祝日でしたので、中学生と一日中おつき合いしていました。常識も良識もわきまえず、教養もなく、言葉の数も極端に少ない、およそ日本人ばなれした中学生を相手に、まともな話をしても通じるはずもなく、土曜日には、三大和歌集、『おくのほそ道』の授業ですが、テスト対策の通り一遍 の授業であって、うんざりしています。 今年度限り、と思い我慢しています。今年度限り、と思えば我慢もできます。限界の域に達しています。 軟禁状態のなか、作文だけを頼りに一日を過ごしました。P教授のお勧めの賜物です。生活が一変しました。感謝しております。 時節柄くれぐれもご自愛ください。 TAKE IT EASY! FROM HONDA WITH LOVE.

「予断をゆるさぬ俳句のお話」

今 仮に、日本語の音を「五十音」とすれば、十七音からなる世界で最も短い定型詩である俳句は、「五十音」の組み合わせで、その数は 50の17乗になります。 50の17乗の羅列は、PCの得意とする分野であって、容易なことです。これで、現在・過去・未来のすべての俳句が網羅されることになります。なんとも味気ないお話です。 「この土手をのぼるべからず警視庁」 感情の表出のない 五・七・五 は俳句とはいえないと、雲英(きら)末雄先生は何度か口にされました。大学の二年次には、雲英先生に、陰影本をテキストにして、西鶴の『好色五人女』を教えていただきました。また、三年次には「蕉風連句」についての講義を受講しました。雲英先生は、暉峻康隆先生の直系です。 当然 感情の表出のない 50の17乗の羅列は、俳句とよぶことはできませんが、安心できないのが今の時代です。将棋にしてしかり、囲碁にしてしかりです。予断を許さないのが今の時代ということなのでしょうか。 雲英先生のお嬢さんの名づけ親は暉峻先生です。「きらくにこ」、「気楽にいこう」。近世文学がご専門の先生方は、どことなく可笑しく、遊び心があります。同郷ということもあってか、卒業論文の件ではよくしていただきました。崖っぷちに立たされたときには、助け船を出していただきました。学部長をされていたときのことでした。 雲英末雄先生が 2008/10/06 にご逝去されたことを今日はじめて知りました。 訃報に接しご冥福をお祈りいたします。 大切な方たちが一人また一人と亡くなられていきます。 大切な方たちとのお別れが続きます。

「小雪の日に思う」

 明日は勤労感謝の日ですが、毎年テスト週間と重なり、休日返上です。思えば、勤労とよべるほどの働きをしているわけでもなく、感謝されればかえって恰好がつかず、毎年適当な祝日を過ごしているのかもしれません。国民の三大義務として、「勤労の義務」が明記され、一方では「勤労の権利」が謳われていますが、「権利」を主張しないからには「義務」もなく、と都合のいいことを考えています。  「 北国から雪の便りが届く頃」と書かれていますが、当地方で本格的な冬の到来を感じるのは、「冬至」のころからです。

「食あたり_予告編です」

「2016/11/20,21_食あたり」 食あたりの症状は下痢、嘔吐、腹痛。 食あたりの下痢には三つのタイプがある!! ことの真相は? 今回の食あたりによる下痢のタイプは、三者三様? 以下、 「 WELQ ココロとカラダの教科書」 です。

「思い出を紡げば」

 昨日 従兄弟のたっちゃんが、奥さんの実家に向かう 途中、父のご機嫌うかがいに寄ってくれました。2020年 東京オリンピックの開催年に晴れて退職、とのことでした。   たっ ちゃんは'60年生まれで、私は'61年生まれです。弟が生まれた '64年には 、東京オリンピックが開催され、'70年にはいっしょに大阪万博に行きました。イタリア館でスーパーカーを見た覚えがあります。その際にはピンバッチをもらったように記憶しています。メキシカンハットを買ってもらいました。机の引き出しには、「EXPO'70 人類の進歩と調和 日本万国博覧会会場図」が書かれたハンカチがあります。帰路には、大津(だったような気がしています)のサービスエリアに車を駐め、車中で泊まりました。  また、'73年のオイルショックを経て、 低成長の時代を迎えた'75年、 たっ ちゃんが中学三年生のときには、安土城址を訪れ 、琵琶湖でモーターボートに乗り、琵琶湖大橋を渡ってすぐ左手にある、当時 ジャングル風呂で名をはせていた ホテル紅葉で一泊し、翌日比叡山に向かいました。   たっ ちゃんの思い出と、私の記憶はかけ離れていて、二人合わせるとおおよそになりました。それぞれの思い出の違いを面白く感じました。  琵琶湖へはマイクロバスで、祖父もいっしょに行きました。祖父たちはホテルから琵琶湖競艇に出かけました。後に、「もう一度モーターボートに乗ってみたいやぁ」と母が何度か口にしたのを覚えています。二人は不帰の客となり、思い出だけが縁(よすが)です。

「ラブコール_自習教材を見る、読む、読みとばす」

◇『高校への数学増刊 図形のエッセンス 』東京出版 ◇望月俊昭『高校への数学 高校入試 数学ハンドブック/図形編』東京出版 ◇森圭示『塾で教える高校入試 数学 塾技100 』文英堂 ◇森圭示 『塾で教える高校入試 理科 塾技80 』文英堂 ◇中村充博『高校入試実力メキメキ合格ノート 中学地理 新装版(現・改訂版)』文英堂 以上の自習教材は、それぞれの参考書の「 いいとこ取り」をしてください。 鉛筆を持たずに見る、読む、読みとばす、というのが大原則です。 『塾で教える高校入試 数学 塾技 100 』 は、例題の解法が頭に浮かべば、それで結構です。あとは解説を読んでおいてください。それ 以上のことは必要ありません。 すべて難関 国・私立高入試用の参考書です。愛知県公立高入試のレベルをはるかに超えています。蚊帳の外のお話です。浮世離れした世界のお話です。遠くから眺めていればいいだけの世界です。 下手に手を出すと、大怪我をします。大火傷を負います。かなう相手ではありません。自信をなくすだけです。「君子危うきに近寄らず」ということで、私は遠ざけています。逃げまわっています。 以上、ご参考まで。 以下、 「自学自習に向けて、当塾の教材の公開」 です。

「P教授に負われて」

以下、 「P教授、辞書と対話中につき」 http://jukuhinokuruma.blogspot.jp/2016/11/p_19.html です。よろしくお願いいたします。 P教授と、タイトルに入れると、閲覧数が明らかに増えます。私がP教授に負うところが多いからだと思っています。 ご返信ご無用です。ご心配ご不要です。 時節柄くれぐれもご自愛ください。 TAKE IT EASY! FROM HONDA WITH LOVE.

「父の思い込み、私の思い込み」

昨日、ABCマートで、VANZ(アメリカの老舗ブランドで、過去何人かの子どもたちが履いているのを目にしたことがあります) のスニーカーを買ってきました。靴紐ではなくマジックテープで、ある程度ソールの滑りのよい靴、ということで四店目にしてやっとたどり着きました。 ソールがある程度滑るとはいえ、接地面との摩擦がないわけではなく、足をあげて歩かないとつんのめって転ぶから、と繰り返しいいました。すると、足が上がり、ずり足で小股に歩いていたのが、すっかり矯正され、ごく普通に歩いていました。手すりを頼るわけでもなく、確かな足の運びで、歩く速さは三倍ほどになりました。本人は気づいているのか、いないのか、よくわかりませんでした。今日は雨が降っていましたので、廊下を歩きました。天気のいい日に外を歩いて、様子をみます。 思い込みは怖いですね。誰しもいくらかの思い込みがあり、そのままに一生を送るわけですから、他人ごとではありません。 交換また返品には、期限をきらずに応じてくれるそうです。良心的です。大きな店ほどうるさいことはいいませんね。 次回は、外出編をお送りします。 では、では。 時節柄くれぐれもご自愛ください。 TAKE IT EASY! FROM HONDA WITH LOVE. 追伸:ご返信ご不要です。ご心配ご無用です。

「P教授、辞書と対話中につき」

「辞書と対話」とは、また異(い)なることのはじまりですね。 『辞書を編む』に匹敵する行為ですね。 私はいつしか辞書と疎遠になってしまいました。 参考文献を読むには、それほどの(英語の)言葉の数と質 が求められるということなんですね。天文学的な数字を前に、頭がくらくらしています。 授業中にて、返信が遅れて申し訳ありませんでした。次なる刺激を楽しみにしております。 P教授からのメールの開封時は、いつもスリリングです。 時節柄くれぐれもご自愛ください。 TAKE IT EASY! FROM HONDA WITH LOVE. 追伸: P教授からのメールには、 受験時代「辞書と格闘」 教授時代「辞書と対話」 と書かれていました。

「ラブコール_小林秀雄『僕は無智だから反省なぞしない』」

テストの詳細については分かりませんが、決して残念がるような点数ではないと思っています。「春、笑えばそれでいい」だけのことです。一喜一憂していると身がもちません。自分を責めるのは得策ではありません。日本人のダメなところです。 この週末には、日曜日の午前中に自由参加の理科の授業が組んであります。他の時間帯はあいていますが、数学の「精選プリント」の質問責めにあうことは必至です。明日の午前中は、来るとすればPさんだけです。Qさんはお出かけ、Rさんは美容院とのことです。日曜日の夜には質問責めからも解放されるか、と思っています。なお、朝は9時以降となっていますので、よろしくお願いします。 しっかりメモはとってあります。充実した時間、有意義な時間を、と思っています。 ご丁寧なご連絡どうもありがとうございました。 では、では。 この週末のご来塾を楽しみにしています。 また、 時節柄くれぐれもご自愛ください。 TAKE IT EASY! FROM HONDA WITH LOVE. 以下、 小林秀雄「我事に於て後悔せず」 です。ご参考まで。

シリーズ授業「それは思春期だから、人間だから」

「それは思春期だから、 人間だから」

TWEET「秋の湿原を行く」

昨日は、小春日和でした。 デイパックに、山専ボトルと、 多摩六都科学館 監修 『 世界でいちばん素敵な夜空の教室』 三才ブックス をつめこんで、秋の湿原 に行ってきました。 山の中腹では、幼稚園の年長組さんかと思われる数十人のご一行様と出会い、たくさんの子どもたちと「こんにちは」の挨拶をかわしました。「ヤッホー」「ヤッホー」「ゆうなちゃん、ヤッホー」の大きな声に励まされました。 『梁塵秘抄』より 遊びをせんとや生まれけむ 戯(たわぬ)れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の声きけば  我が身さえこそ動(ゆる)がるれ 湿原に咲くキセルアザミの花に、目を奪われました。 以上、P教授の声にうながされて、でした。

TWEET「窓を開ければ」

今日は小春日和です。 まず手がかりに、 窓を開ければ、 なにかはじまりそうな気がして。

「光は最短距離を進むという感動」

 たとえば、光源から出た光が鏡面で反射され私たちの目に届くとき、光は最短距離を進みます。その道筋の作図法は、最短距離の作図法と同じです。  授業で取りあげても、子どもたちにはなんの感動もありません。子どもたちの目には、ひとり感動している私が、変な人に映るようです。  以下、「中学理科の学習  SCIENCE 」さんのサイトです。 教材が、 インターネット上に、 これほどまでに用意されて いるとは思いもよりませんでした。自学自習をする環境が整った今、なぜ子どもたちは、こぞって塾へ、予備校へと向かうのでしょうか。不思議でなりません。 「中学理科の学習 SCIENCE」

「絶対的な北はありませんという驚き その二」

「迷える仔羊さんたちのお話」  時代錯誤もはなはだしく、いまだに天動説をとなえる子どもたちがいます。右も左も、東も西もわからない迷える仔羊さんたちもいらっしゃいます。とはいえ、右も左もわからないのは私とて同じことで、迷える仔羊さんたちの群の、毛色のかわった一匹にすぎません。 「授業です」  以下、すてきな先生のすてきなサイトです。ぜひご覧になってください。絶対的な北がないことを理解していただけるでしょうか。 みっつーの理科室からのひとり言「天体のモデル教材」  発泡スチロールの球体は地球です。赤い線は赤道です。青の線は、およそ北緯35°の緯線です。日本はこの青色の線上を北極側からみて、反時計回りに一日に一周(地球の自転)しています。方位の決め方は、画像の通りです。厚紙は地平線(地平面)を示しています。  緑色の押しピンは、日本にいる人です。紫色の押しピンは、北極にいる人です。ともに地球の中心(鉛直方向)にひかれています。  緑色の押しピンを赤道上に移動させると、真上が北なります。南半球に位置するオーストラリアに押しピンを移動させてみてください。右斜め上が北になります。  右の画像は、日本の日の出の様子を示しています。向こう側(東)で輝いているのが太陽です。日本での東は、左の画像より反時計回りに90°ずれていることがわかります。

「絶対的な北はありませんという驚き その一」

 絶対的な北がないことを知ったときの、驚き、戸惑いは、今も記憶に鮮やかです。今後なにを手がかりにして生きていけばいいの、と大仰なことを思いもしました。  この商売にたずさわって、はじめて知ったことがたくさんあります。なかでも天体の分野は、驚きにみちています。不思議な世界です。私は、愛知県公立高入試の問題が解けるほどの知識しか持ちあわせていません。  「絶対」的な存在があることの強さ、「絶対」的な存在がないことの弱み。「絶対」的な存在があることの確かさ、安らかさ、「絶対」的な存在がないことの頼りなさ、心もとなさ。そして、「絶対」的な存在があるがゆえの頑なさ、危うさ、怖さ。  以来、「絶対的な北はない」ことの示唆することを折りにふれて考えています。 「絶対的な北はありません、という驚き その二」 へと続きます。

「慶祝!快哉!!公認会計士試験 合格」

わーい!! 合格おめでとうございます。 お電話でお話しして以来、ずっと気分が高揚しています。 五回目の卒塾生で、平成13年に小坂井高校に進学されたんですね 。 今月の末に定期テストが組まれています。来月は、火・金曜日の夜以外、木曜日は19時以降ならば結構です。父に手がかかるようになりました。昼間の予定については、はっきりしたことはいえませんが、月・金曜日ならば、だいじょうぶかと思います。舘山寺温泉のホテル九重さんの 「日帰り温泉&ランチプラン」 はいかがですか。美味しいものをいただいて、温泉につかって、ゆっくりしませんか。久しぶりに歓談、談笑しましょう。私からRへのささやかなはなむけです。以下、 ホテル九重さんの URLです。 http://hamanako-kokonoe.jp 重ね重ねも、おめでとうございます!!胸をなでおろしています。苦節六年、 なみなみならぬ努力の末につかんだ夢に感服しています。触発されます。 新天地でのご健康とご多幸、またご活躍を、心よりお祈りしております。 ご丁寧なご連絡、どうもありがとうございました。 お母さん、またお姉さんによろしくお伝えしてください。 では、では。 時節柄くれぐれもご自愛ください。 TAKE IT EASY! FROM HONDA WITH LOVE.

「P教授に導かれて、中島敦『名人伝』です」

今か今かと、寄稿論文の頁数を数えていました。「単著」に期待していました。「単著」に期待を寄せています。 P教授に導かれて、中島敦『名人伝』を青空文庫で読みました。「木鶏」の読みと意味も調べました。 中島敦の作品は、高校時代に『山月記』を習い、そしていずれのときにか再読しました。それっきりです。漢文の力を感じます。三十三歳という若さで亡くなられたことが惜しまれます。 どういう結末を迎えるのかばかりが気になり先を急ぎました。まだ先があるの、まだ続くの、いったいどういう結末が待っているというの、とあっ気にとられていました。 朝からとてつもない作品とめぐり合いました。今にして思えば、「十牛図」をみているかのようでした。再読します。味読します。お導き、どうもありがとうございました。 Publisher の件、もったいないお話に恐縮しております。しばらくの間このまま、書き継ぎます。 どうもありがとうございました。 時節柄くれぐれもご自愛ください。 TAKE IT EASY! FROM HONDA WITH LOVE.

TWEET「我がふり直せ」

たいへん遅ればせながらも。 今日は午前・午後、計六時間 授業をしました。中学校の先生方が雑な教え方をされますので、その後始末に大わらわです。 整理整頓ができる子どもたちは少数です。机の上はいつも雑然としています。この広げっぱなしの散らかった状態は、あなたたちの頭の中と同じだ、というのですが、改善の兆しは一向にみられません。机上のことはさておき、頭の中の整理はついているのでしょうか。 とはいえ、我が身をふりかえれば、子どもたちに向かって、語気を荒げるわけにもいかず、我がふり直せ、ということに決めています。 時節柄くれぐれもご自愛ください。 TAKE IT EASY! FROM HONDA WITH LOVE. 以上、「拝復 P教授様」でした。

「ラブコール_ぜひおこしください。お待ちしています」

授業中につき、たいへん遅ればせながらも…。 今回も脱帽です。Pさんのひとり勝ちです。 私たちは日曜日の午前・午後で『数友』の「相似な図形」の分野を終わらせる予定でいます。 習いはじめたばかりの「天体」はさておき、「化学電池」特に「中和」は過去問が解ける程度にまでに仕上がるといいな、と思っています。それには少し説明が必要かと思います。第四テストの前におこしください。お時間はとらせません。お待ちしております。 学力診断テストは、問題、答案用紙ともに返されないということですので、雲をつかむような話で、私には何の手がかりもなく、途方に暮れています。間違えた問題をやり直してこそのテストだと思うのですが、学校当局はいったいどのように お考えなのか、意味不明です。 ご丁寧なご返信、どうもありがとうございました。 学力診断テストの結果、楽しみにしています。 時節柄くれぐれもご自愛ください。 TAKE IT EASY! FROM HONDA WITH LOVE. 今回は、星野道夫さんです。星野道夫さんの文章は、 「アラスカとの出会い」 中学三年生の国語の教科書『国語 3』光村図書出版(247-253頁) に、また、 「An Artist in the Arctic」 中学三年生の英語の教科書『NEW HORIZON 3』東京書籍 (106-111頁) に載っています。 以下、 星野道夫「ハント・リバーを上って」(全) です。 追伸:弟は、星野道夫さんを称して、「優しい文章を書く人だね」といっていました。

「ブラックバス_’16 秋季シリーズ 手を水にひたす」

昨日 用事をすませ、せっかくでしたので、P池のご機嫌をうかがいにいってきました。P池の堤の草原(くさはら)には、モンキチョウが舞い、ベニイトトンボ が飛び、ショウリョウバッタが力の限りの最後の跳躍を繰り返していました。四季折々の昆虫を目にしました。 逆光に透かして見た池の中には、一面をおおったオオカナダモの群生がはっきりと見てとれました。 手を水にひたすと、予想以上に冷たく、シーズンの終わりを覚悟しました。 ハクモクレンが小さな冬芽をつけていました。来春へむけての準備です。その 着々とした営みは、遅々としてすすまない冬支度を、私にうながしているかのようでした。 「ハクモクレンの冬芽」

TWEET「今日は小春日和でした」

今日は小春日和でした。 昨年、以下の三つのブログを書きました。私の小春日和は、これで決定づけられました。 如月小春さん、 「キネマの天地」のヒロインで、 有森也実さんが演じられた 田中小春さん、「 東日本大震災復興支援ソング  花は咲く」です。 TWEET「今日は小春日和でした」 TWEET「今日も小春日和です」 TWEET「今日もまた小春日和です」

天人 深代惇郎「ハイボール」

天人 深代惇郎「夕焼け雲」惇郎「ハイボール」 深代惇郎『深代惇郎の天声人語』朝日文庫(25-26頁)  この夏、中国で日本の「野球チーム」と中国の「棒球隊」が相まみえることになった。彼は「棒球」といい、われは「野球」というが、こうした大衆スポーツを通じ、いっそう理解し合えるのは喜ばしいことだ。  中国の棒球規則の前言に「友好第一、試合第二の精神を貫き、チャンピオン主義に反対せよ」と書かれているのは、いかにも中国らしい。覇権を求めず、覇権を許さず、という原則は、野球にまで及んでいるのだろう。  日本の野球史は百年を超えたが、最初の国際試合は一高対横浜在留アメリカ人だった。無敵を誇る一高チームが、アメリカ側に他流試合を申し込んだが「まあ、やめておきましょう」と相手にしてくれない。  明治二十九年五月、ようやく念願がかなって、横浜公園で対戦となった。結果は二十九対四で一高の大勝となり、日本野球史の輝かしい一ページとなったが、このとき日本側は捕手以外は素手でやったというからすさまじい。  日本でも野球の草創期は、チャンピオン主義の風潮はそれはど強くなかった。体育とか娯楽といった純な気分でやっていた。雨のはげしいときはミノかさをつけたし、頭に白はちまき、腰に越中フンドシ、ワラジばきといったいで立ちで、グランドを走り回った。  ある遊撃手がハカマを着用して出場したとき、礼節を知る選手として相手チームから絶賛されたが、実はゴロを後逸しないためだったという話も残っている。また当時は、ストライクゾーンが三つあった。  目から胸まではハイボール、腰まではフェアボール、ヒザまではローボール。打者は審判に向かい「余はハイボールを欲す」と予告し、そこに球がこなければ「ボール」になった。相手の弱点をねらわず、欲するものをあたえて勝負するのが正々堂々の試合とされたのだろう。  こんどの日中野球では、おたがいバッターボックスで「余は友好を欲す」と注文してほしい。このゾーンに外れた球はすべて「ボール」、ということにしよう。(50・4・21) 以下、 天人 深代惇郎「夕焼け雲」 「新聞の自由を生きた男 深代惇郎」(全) です。