白洲正子「遊鬼 鹿島清兵衛」


白洲正子「遊鬼 鹿島清兵衛」
白洲正子『遊鬼 わが師 わが友』新潮文庫
ついでのことにいっておくと、「遊鬼」という題名は、いわば瓢箪(ひょうたん)から駒(こま)が出たようなもので、ある晩、編輯長(へんしゅうちょう)の山崎さんと呑(の)んでいて、清兵衛が(能の)舞台に出て来る時の姿は、「幽鬼」のようだったと私が口走ったのを、山崎さんは(たぶんわざと)聞き間違えて、「遊びの鬼ですね、それは好い題だ」といったので、そのままにしておいたというわけだ。
 さて、 鹿島清兵衛の「遊鬼」ぶりであるが、それはまことに徹底したものであった。
(中略)
今の金持とは、大体スケールが違うのである。いくらスケールは大きくても、面白くても、こんな話は書いている間に飽き飽きしてしてしまう。明治二十八年といえば、清兵衛が百物語に招待した前年で、鷗外は新聞紙上で逐一承知していたに拘わらず、全部省略したのは当然のことだろう。
白洲正子『遊鬼 わが師 わが友』新潮文庫(129-132頁)

 その素人芸の極まるところ、 鹿島清兵衛の真の姿が現れる。大正十三年夏、万三郎が一世一代の「関寺小町」を舞うというので、笛の役を引受けた清兵衛は、老いさらばえた美女の心境を、笛の音色に表現したいと念じ、粥(かゆ)をすすって自から体力を消耗させた。舞台はみごとに勤めたが、その夜から発熱し、翌日病を押して京都で演能の約束を果した後、東京へ帰って亡くなった。五十九歳であった。ぽん太(清兵衛の妻)も間もなくその跡を追い、四十六年の数奇な運命の幕を閉じた。
白洲正子『遊鬼 わが師 わが友』新潮文庫(135頁)


「遊鬼 鹿島清兵衛」の最晩年を引用しましたが、白洲正子が「幽鬼」「遊鬼」と称した鹿島清兵衛についての全体像はわかるはずもなく、実際に手にとって読んでいただくしかありません。悪しからず。