岡潔,司馬遼太郎「無為にして化す」
司馬 政治をなさらないのが日本の天皇さんだと思うのです。大神主さんであって、中国や西洋史上の皇帝ではなかった。あの存在を皇帝にしたのが明治政府ですが、どうもまずかった。(34-35頁)
岡(前略)上に立つ方は、無である方がよいのです。
司馬 無であるというのが日本史上の天皇ですね。
岡 無であるということは、武士であるということを不可能にすることです。(35頁)
司馬 そうでしょうね。明治以後の天皇制は日本の自然な伝統からみると間違っていますね。
岡 信長はよくやってるんだがボスになる。秀吉もよくやってるんだがボスになる、いくらやっても、結局ボスになる。この傾向を除き去ることはできないでしょう。それゆえ、天皇は是非いるのです。私は、そういう見方をしています。
司馬 それはたいへん結構ですね。
岡 書きにくいのですがね。私はそう思っております。全く無の人をそこへ置くべきです。
司馬 老荘のいう無の姿が、日本の天皇の理想ですね。
“無為にして化す”…。
岡 老荘のいう無であって、禅のいう無ではすでに足りません。禅のいう無はその下に置くべきです。 “無為にして化す” 全くそのとおりです。
司馬 自然と日本人の心の機微が天皇というものをうんだのですね。
岡 しかしね、この意味は匂わすだけでなかなか書けないのです。あんまり機微に触れたことは書けません。
司馬 よくわかります。
岡 わかっていただけるでしょう。それとなくいうのが一番いい。全く無色透明なもを天皇に置くのが、皇統の趣旨です。これなくしてはボスの増長を除くことはできません。
司馬 是非いりますね。(後略)(36-37頁)
私は、たとえば政治や経済等の、世の中の現象については、あまり興味がない。ゆえに疎い。
今回は偶然にも、信用のおけるおふたりの対談を読み、天皇制の核心部分について知った。「無為にして化す」ことが絵空事でないことを知るにいたった。日本とは、日本民族とはたいしたものであると思った。
私は政治や宗教等の、人のこころの最もやわらかな部分にふれることを極端に忌む者である。
“勧誘
” などという勇ましい言葉を見聞きすると総毛立つ。そのつもりで読んでいただければ、と思っている。