岡潔「くそ坊主は追い払いましょう」
岡潔 司馬遼太郎「萌(も)え騰(あが)るもの」
岡潔『岡潔対談集_司馬遼太郎,井上靖,時実利彦,山本健吉』朝日文庫
昨日のブログで、「三日坊主」という言葉を使いましたので、せっかくですから、おふたりの対談を引用しておきます。
司馬(前略)禅とはそれそのものはたいへんなものですけど、これはやはり生まれついた人間がやらなければいけませんね。道元、白隠にしてやれることであって、あとは死屍累々(ししるいるい)ですな。
岡 まあ、せいぜい一万人に一人。
司馬 その割合はあるいは甘いかもしれませんね。十万人に一人です。
岡 禅に限らず、僧侶は十万人いる。ところが本物は百人だと、薬師寺の前管長橋本凝胤(ぎょういん)もいっています。
司馬 そんな割合なら、うどん屋の同業組合のなかで選べますからね。
岡 選べますとも。巷(ちまた)にそのくらいはおります。
司馬 だけどお坊さんを改悛(かいしゅん)させて俗人にしなきゃいかんことが、岡先生のご任務じゃないでしょうか。奈良に住んでらっしゃるから。
岡 仏教廃止にしましょうか。
司馬 仏教廃止もよろしゅうございますね。えらいところで共鳴してきたな。
岡 でも、いろんな仏たち、たとえば法隆寺でいえば救世観音、新薬師寺の十一面観音、みんな残さなきゃいけません。
司馬 仏たちは尊うございますからね。お坊さんと仏たちとは違うんだから。
岡 くそ坊主は追い払いましょう。お前たちにはご用ずみだ、迷信と葬式仏教によって食べていこうとするな。(44-45頁)
過激な対談と言うことなかれ、溜飲がさがる思いを抱いている。「お坊さんを改悛させ」ると「俗人に」なるところが面白い。
両氏の対談「萌え騰るもの」からは、多くのことを学んだが、理解のおよばないことも多々ある。これを機に再読することにする。
今回の「古社寺巡礼の道ゆき」では、救世観音の秋の特別展は終わり、また新薬師寺へは行く時間がなかった。
“美” の前に立ちつくすと、時間の感覚があやふやになる。計画など立てようがない。