「辰濃和男『歩き遍路―土を踏み風に祈る。それだけでいい。』海竜社_師走に『四国遍路』を渉猟する」
一昨日の夕刻すぎ、 ◆ 辰濃和男『歩き遍路―土を踏み風に祈る。それだけでいい。』海竜社 を読み終えた。 たくさんの言葉に接し消化不良を起こしている。 「土を踏む」ことと「風に祈る」こと、それだけでいいというのは、その二つの単純な動詞さえ大切にすれば、あとのことは重要であっても最重要ではない、という意味だ。 「土を踏む」、つまり日々、歩くことをつづければ、どんな御利益があるだろう。 まず、野生をよみがえらせることができる。いいかえれば、生命力が強くなる。 自立心がます。楽天的な思いが湧く。なにごともセーカイセーカイダイセーカイ(正解正解大正解)だと思う。おろかで、欠点だらけの自分に出あうことができる。へんろ道は己の「魔」を照らす「照魔鏡」である。 そして、人との大切な出あいがある。 たくさんのお接待をいただき、手をあわせる。感謝をする。そのことが、人間が生きるうえでの基本だということを知る。 感謝はさらにひろがる。大自然の営みへの感謝がある。 大自然の営みに感謝する祈り ー それこそが「風に祈る」ということだ。私の体験のなかでは、「土を踏む」ことが「風に祈る」ことにつながり、「風に祈る」ことが「土を踏む ことをさらにうながしている。(337頁) 「土を踏む」という言葉が、何百万年前の太古にさかのぼるのに対して「風に祈る」という言葉は一輪の花から宇宙空間にまでひろがってゆく。「風に祈る」の「風」は、風そのものだけではなく、空・風・火(光)・水・地という宇宙を象徴する言葉の代表選手として使っているつもりだ。 究極の祈りは、宇宙の営みへの感謝の祈りである。(「あとがき」341頁) へんろ道は「祈りの空間」である。 (「あとがき」340 頁) ◆ 高群逸枝著 ,堀場清子校註 『娘巡礼記』岩波文庫 「高群は出かける前「道の千里をつくし、漂泊の野に息(いこ)はばや」と書いている。 高群が四国を回ったのは一九一八年で、二十四歳のときだった。六月から十月までの長い旅である。当時のへんろ道では、「山で若い女が殺されたり、姦(おか)されたり」することがあるという噂話もあった。しかし高群は書く。「でも構はない。生といひ死といふ、そこに何程の事やある」という意気込みだった。 顔や手足に虫が這う草むらで野宿をする。小川のそばに毛布を敷いて寝る。テントも寝袋もない野宿