「大寒の日の今日、虚な頭で」
金曜日(2020/01/17)の午後には、2020/01/04 の午後からはじめた中三生の総括(学年末)テストの対策授業を終えた。冬期講習(2019/12/20〜)から数えると長丁場だった。土,日,月曜日には塾を自習室として開放し、また質問には随時応じることを子どもたちに告げた。
残務整理をし、そして適当なところで私立高入試の準備を切りあげた。活字は見る気にならなかった。横になって、ブルーノ・ワルター「田園」ばかりを聞きながら、うつらうつらしていた。うつらうつらしながらも多少思うこともあった。
[名対談再録]「歴史について」小林秀雄 × 河上徹太郎
1979.7.23、於福田屋
『考える人 小林秀雄 最後の日々 生誕111年・没後30年記念特集 2013年春号」 新潮社
1979.7.23、於福田屋
『考える人 小林秀雄 最後の日々 生誕111年・没後30年記念特集 2013年春号」 新潮社
河上 そりゃあ、それでいいがね。……小林、僕この頃変になったんだ、音楽って嫌いになったよ。
小林 そうか。
河上 どういうことだろう。
小林 わかるよ。
河上 堅っ苦しくて厭(いや)なんだよ。僕、現代音楽というのが、好きになってしまった。
小林 わかるよ。わかるけれど……。
河上 いけないか……。
小林 いや……。それは年齢(とし)のせいだよ。
河上 もう、モーツァルトとか、ベートーヴェンとかが、堅っ苦しくて厭なんだ。
小林 それは、当りまえのことが起こってるんだ。君、さしみは好きだろう。ところが、年齢とってきて、この頃はさしみがちょっと生臭くなってきたっていうところがあるだろう。
河上 こいつ、なんでも先を知ってやがるから厭だ。
小林 先きも後もない、長い付き合いがわからせるものがあるんだ。ーー僕は今日、「有愁日記」を読んでいたんだよ。
河上 そりゃ、どうも。……ここへ来るまで、僕は寝ていた。
小林 話のきっかけでも見つかるかと思ってね……。だんだん読んでいたら、君が、僕の「モオツァルト」に触れているんだ。忘れていたな。ところが、まったく偶然なんだが、前の晩、新しいレコードをもらったんでね。五一五番のクィンテットを聞いていたんだ。どうも、やっぱり大したものだ、と思っていたんだ。
河上 待てよ。おれも、忘れてた。
小林 「神さまは、バッハよりもモーツァルトのほうがお好きだろう」とバルトが言った、と君は書いていたな。あれはおもしろい。
河上 ゲオン推賞のクィンテットの話となれば、もうおしまいにしてもいいな。
「何もしないことが、力を生む」
「方向性を持たずに『ボーッと聴く』」
河合隼雄,谷川浩司『「あるがまま」を受け入れる技術 』PHP文庫
それにしても、集中力というのは難しいものですね。カウンセリングの現場でも、クライエントが来られて話を聴くでしょ。その時に、もちろん集中して聴くわけですが、その時の集中力というのは、何かひとつの方向に収斂(しゅうれん)していくような集中の仕方ではなくて、言ってみれば方向性を全部捨てた集中力なんですよ。精神分析学を始めたフロイトは、そのことを「平等に漂える注意力」と言っています。
(中略)
そうではなくて、クライエントがたとえ「父が酒飲みで困ってる」とか言っても、「ふんふん」と言って聴いています。そのうち、窓の外に鳥の声がしたら「鳥が鳴いてますよ」「鳴いてるね」というような話もするでしょ。それから、今日その人が来る時に電車に乗り損ねた、なんていう話も出るかもしれませんね。それもみんな平等にボーッと聴いてるんです。あんまりボーッとし過ぎると寝てしまいますが、寝てしまっては駄目なんですよ(笑)。いろんな話が出てきたら、その話と話の境目にいて聴いているというのが大事なんですね。そうやって全体に耳を傾けているうちに、いつか答えが見つかるもんなんです。
おそらく仏教を考えたお坊さんたちは、そういう方向性を持たないような意識を深く深く掘り下げて、ボーッとして寝ているどころか、死んでいる状態に近いぐらいのところまで行って、そういうところからこの世界を見てきたでしょう。そうやって体験した世界のことが書いてあるのがお経だと思うと、すごい面白いんですよ。(146-148頁)
下記、
河合隼雄「方向性を持たずに『ボーッと聴く』」
です。
小林秀雄『偶像崇拝』
小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫
「絵を見るとは一種の練習である。練習するかしないかが問題だ。私も現代人であるから敢えて言うが、絵を見るとは、解っても解らなくても一向平気な一種の退屈に堪える練習である。練習して勝負に勝つのでもなければ、快楽を得るのでもない。理解する事とは全く別種な認識を得る練習だ。現代日本という文化国家は、文化を談じ乍(なが)ら、こういう寡黙(かもく)な認識を全く侮蔑(ぶべつ)している。そしてそれに気附いていない。」(218頁)
下記、
です。
追伸:小林秀雄の講演は、私にとって一編の音楽です。