青山二郎といい、小林秀雄、白洲正子といい、「青山学院」と呼ばれ、「 昭和の文壇を華やかに彩った文士たち」 は、超然として「自己本位」 の境地に遊んだ。 井筒俊彦においては、これらは「コトバ」の自己分節であって、関心の埒外の出来事であったに違いない。意識の深みに「実在」を索め、その階層構造を明らかにし、ついには自身の深層言語学的哲学を展開するにいたった井筒にとって、表層意識への関心は希薄であったといえよう。 一方 漱石はといえば、「利己か利他か」に生涯執着し、その撞着が漱石に小説を書かせた、といえるかもしれない。安易な解決を許さなかった漱石は強靭な精神の持ち主だった。 さて、長らく「他己本位」という惨劇の最中(さなか)にあって、いま私は躊躇することなく「自己本位」に触手を伸ばす。それには多少の荒療治が必要かと感じている。 残された限られた時間、「悪しき道徳教育の、18歳の残滓」の虜になっている暇はない。 「拝復 P教授様_悪しき道徳教育の、18歳の残滓です」 2018/07/31 おはようございます。 我慢する、我儘は許されない、また反省する。 いずれもいずれも悪しき道徳教育の、18歳の残滓ですね。 この際きっぱりとお別れすることにします。 我慢しない。我儘に生きる。「反省なぞしない」。 無頓着で、無造作な、鷹揚で、無邪気な生活を心がけます。 盛夏です、酷暑です。容赦なしです。 くれぐれもご自愛ください。 FROM HONDA WITH LOVE. 追伸: 小林秀雄さんが、座談会にて、 「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」(『近代文学』昭和二十一年二月号)と話されています。