「山賊の岩魚釣り」
伊藤正一『定本 黒部の山賊 ー アルプスの怪』山と渓谷社
林平の岩魚釣りはまさに名人芸だった。彼はどこの岩魚は、それぞれの時期にはどんな虫を食べているかをよく知っていたので、その虫の色に合わせて、毛針を自分で巻いた。彼は流れのはたを、上流に向かって静かに歩きながら針を投げた。針を投げつつ歩く速さは常人がふつうに歩く程度だった。彼の手もとが軽くかすかに動くと、針は生きたもののように彼の思うところに落ちた。すると、まるで磁石にでも吸いつけられるように魚が吸いつけられてきた。つぎの瞬間、岩魚は空中をひらひらと舞うように飛んで、左手の手網の中へ飛び込んだ。そしてそのときには針がはずれているのである。万一途中で針がはずれても、岩魚だけは手網の中へ飛び込んでくる。まさに見惚れるほどの名人芸である。「拾うよりも早い」と彼は言っていた。
六月ごろまで黒部の谷にも雪渓がだいぶ残っている。雪渓の下にいる岩魚を釣るときは、彼は針を水平に振った。魚は水平に飛んで手網の中に入った。あまりのみごとさに私はしばしば見惚れていた。後日政府のある高官が「無形文化財にしようか」と言ったほどである。
調子のいいときは半日で十貫ほど釣ったこともある。そんな日にはそれ以上は釣らなかった。残りの半日で釣った岩魚を燻製にするためである。
通常、岩魚はだれかの釣ったあとしばらくのあいだは絶対釣に釣れないものだが、不思議に林平の釣ったあとは、直後でも釣れた。彼はぜんぜん魚をおどかしていなかったからである。
林平は漁をするだけでなく、山と魚を愛していた。釣りの往復にはかならず鎌を持って行って道端の草を刈りながら歩いた。また絶対に小さな魚は釣らなかった。まちがって小さなのを釣ったときは「来年まで、でかくなっていろよ」と言って逃してやった。
(中略)
その彼はもしだれかが毒などを流して岩魚を獲ろうものなら、怒り心頭に発して徹底的にこらしめた。「毒を流すと、幼魚や、岩魚の餌になる川虫までが死んでしまうから、当分岩魚が絶えてしまう」と言うのである。
したがって彼らのいたころは、悪い猟師が入らず、黒部は荒らされなかった。その点は、むしろ山賊のよい半面であった。(58-59頁)
遠山林平は、四人の「黒部の山賊」の一人である。山賊とは良識ある山人、哲人のことだった。
「半日で十貫ほど」とは「半日で 37.5kgほど」ということであり、その釣技、釣果にはただ瞠目するばかりである。
テンカラの道具立ては整っているが、座学ばかりで渓流への道はいよいよ遠く、明朝のソルトルアーフィッシングでは沢登りの出で立ちで砂浜にのぞむことにした。せめてもの思いである。
また、山の日を前に、
◇ 戸門秀雄『職漁師伝 渓流に生きた最後の名人たち』農山漁村文化協会
◇ 戸門秀雄『溪語り・山語り 山人たちの生活誌』ヤマケイ文庫◇ 戸門秀雄『職漁師伝 渓流に生きた最後の名人たち』農山漁村文化協会
が気になっている。
釣りの話題が続きます。