「井筒俊彦の逝去に寄せて」

 それ(井筒俊彦の突然の死)は突如としておとずれた取り返しのつかない挫折、断絶だったのだろうか、私はそうは思わない。論文・著作という外的完成ではなく、次元的にそれに先行する地平、つまり実在的意識地平内に、内的にふと生起する一瞬の無空間的・無時間的な、意味事態磁場(フィールド)こそが、求道的哲学者であった彼自身にとっては少くとも、より真正で、より如実で、よりポジティヴであっただろうから。
 それ以上彼にとって何が必要だったろう。知覚感覚的次元での彼の生命の力動性は、彼の突然の、肉体的な事実上の死、以前に既に、その凝固性を失っていたのではないだろうか。それでも…にもかかわらず…最後まで、彼は哲学的思索の意味磁場(テクスト)を紡ぎ出し織り出し続けていた…尽瘁するまで。(井筒豊子「『意識の形而上学』あとがきに代えて」)

 確かに井筒の魂は、「肉体的な事実上の死、以前に既に、その凝固性を失っていた」。小林(秀雄)は、ランボーが詩を棄てた原因を、「面倒になった」からだといった。哲学者の言葉は、すでに理知と直観と熱情を論理に組み替えるという営みが「面倒」になっていた。哲学者のなかで熟していった存在への深い理解と「信仰」は、すでに此界での反響を期待していなかったのかもしれない。(166頁)