「井筒俊彦『意識と本質』_はじめから」
2018/05/08 から、
◇ 井筒俊彦『意識と本質』岩波文庫
を再読しはじめた。乱脈な読書では追いつかなくなった。「はじめから」は、私の不甲斐なさゆえに「はじめて」のように映じたが、井筒俊彦の手さばきは、初読時にもまして鮮やかであった。
「意識はいろいろ違った仕方で意識であり得る、とメルロー・ポンティが書いている」
との記述が、99頁にあるが、「意識は(が)いろいろ違った仕方で意識であり得る」ならば、禅における無「本質」論を含め、
「本質はいろいろ違った仕方で本質であり得る」
ことに間違いないが、井筒俊彦の用いる、「本質」という術語に戸惑っている。
「はじめから」、「Ⅶ」章(180頁)まで読み直した。「Ⅵ」章,「Ⅶ」章は、「禅(無『本質』的存在分節)」に関する「論究」に割かれている。
「通常、言語道断とか言詮不及と称される禅体験のこの機微を、できるところまで、敢えて言語化してみよう。」(168頁)
との、婉曲的な表現とは裏腹に、井筒俊彦は、易々と、「言語道断」という掟破りをしてのけた。細大漏らさずということに疑念をはさむ余地はないが、私には見当がつかない面も残されている。
また、「文化的無意識」としての「言語アラヤ識」の考察もあり、興味は尽きなかった。
私はこの本の冒頭で、「意識」が必ず「…の意識」という形で本来指向性をもつ、と告げられ、読みやめられなくなった。これは明らかに深い瞑想体験に裏付けられている、と感じたのである。
『意識と本質』の「後記」には、「一度そっくり己れの身に引き受けて主体化し、その基盤の上に、自分の東洋哲学的視座とでもいうべきものを打ち立てていくこと」(411頁)
「意識はいろいろ違った仕方で意識であり得る、とメルロー・ポンティが書いている」
との記述が、99頁にあるが、「意識は(が)いろいろ違った仕方で意識であり得る」ならば、禅における無「本質」論を含め、
「本質はいろいろ違った仕方で本質であり得る」
ことに間違いないが、井筒俊彦の用いる、「本質」という術語に戸惑っている。
「はじめから」、「Ⅶ」章(180頁)まで読み直した。「Ⅵ」章,「Ⅶ」章は、「禅(無『本質』的存在分節)」に関する「論究」に割かれている。
「通常、言語道断とか言詮不及と称される禅体験のこの機微を、できるところまで、敢えて言語化してみよう。」(168頁)
との、婉曲的な表現とは裏腹に、井筒俊彦は、易々と、「言語道断」という掟破りをしてのけた。細大漏らさずということに疑念をはさむ余地はないが、私には見当がつかない面も残されている。
また、「文化的無意識」としての「言語アラヤ識」の考察もあり、興味は尽きなかった。
玄侑宗久(作家・臨済宗僧侶)「井筒病」
『井筒俊彦全集 第八巻』 月報第八号 2014年12月 慶應義塾大学出版会
それにしても、『意識と本質』の如き著作が、単に博覧強記や明晰な分析だけで可能だとは到底思えない。それにしては、「正位」と「偏位」、「平等」世界と「差別(しゃべつ)」世界の描写が、あまりにも繊細なのだ。
今でも私は、井筒先生の禅にまつわる著述に出逢ったときの興奮が忘れられない。禅僧以外で、これほど明晰に禅を語った人がいただろうか。いや、禅僧は禅の内部で語るのだから「明晰に」というわけにはいかない。あらゆる哲学や宗教を知り尽くした井筒先生だからこそ、思想としての禅の位置づけが明晰になされたのだろう。禅の詩的な側面をうまく取り出し、世界に紹介したのが鈴木大拙翁の功績だとすれば、井筒先生は禅の奇特さを世界的な思想の枠組みの中に示してくださった。私などに申し上げる資格がないのは明らかだが、禅にとって井筒先生は天恵の如き存在であったと思う。
『禅仏教の哲学に向けて』は勿論貴重な著作だが、むしろ『意識と本質』において、試みられた東洋的広がりの中での禅の位置づけと分析が、私には極めて刺激的だった。いったいこれほど広く深く綿密な仕事がどうしたら可能なのかと、驚嘆しながら読み進めた覚えがある。後記の「小品程度」という謙虚な述懐が私にはさらにショックだった。
(中略)
『禅仏教の哲学に向けて』は勿論貴重な著作だが、むしろ『意識と本質』において、試みられた東洋的広がりの中での禅の位置づけと分析が、私には極めて刺激的だった。いったいこれほど広く深く綿密な仕事がどうしたら可能なのかと、驚嘆しながら読み進めた覚えがある。後記の「小品程度」という謙虚な述懐が私にはさらにショックだった。
(中略)
私はこの本の冒頭で、「意識」が必ず「…の意識」という形で本来指向性をもつ、と告げられ、読みやめられなくなった。これは明らかに深い瞑想体験に裏付けられている、と感じたのである。
『意識と本質』の「後記」には、「一度そっくり己れの身に引き受けて主体化し、その基盤の上に、自分の東洋哲学的視座とでもいうべきものを打ち立てていくこと」(411頁)
との記載が見られるが、「そっくり己れの身に引き受けて主体化」するとは、すなわち井筒俊彦の実存的体験であった。幾座もが連なる山なみを踏破するなかで、井筒俊彦はしだいに透きとおっていった。
ひき続き、「はじめから」、井筒俊彦という「真言」を聞くという読書を続けます。
ひき続き、「はじめから」、井筒俊彦という「真言」を聞くという読書を続けます。