「週末に氏神さまと三河國一之宮をめぐる」

2022/12/10
◇「豊麻神社」
 夕方 目と鼻の先にある、氏神さまの「豊麻神社」に参拝した。御本殿のほかに五つのお社がある。
 子どものころは、格好の遊び場だった。
 神さまについて知ったのは、つい最近のことである。

「御本殿」

2022/12/11
◇「三河國一之宮 砥鹿(とが)神社 奥宮(本宮)」
 活字を眼で追うことに疲れ、気づまりで、本宮山(ほんぐうさん 標高 789m)の頂上にある、「三河國一之宮 砥鹿神社 奥宮」へ向かった。
 授与所の神職さんは今日も不機嫌だった。

「御本殿」

「富士山遥拝所」の赤い鳥居から霊峰富士を仰ぎ見た。思いもかけないことだった。
 分かっていただけるでしょうか。目を凝らしてみてください。拡大してみてください。

「富士の高嶺」

 岩が気になった。岩は依代である。

「天の磐座(いわくら)」

◇「国見岩」
「第四章 叙景歌の成立 三 見れど飽かぬ」
白川静『初期万葉論』中公文庫
「古代においては、『見る』という行為がすでにただならぬ意味をもつものであり、それは対者との内的交渉をもつことを意味した。国見や山見が重大な政治的行為でありえたのはそのためである。国しぬびや魂振りには、ただ『見る』『見ゆ』というのみで、その呪的な意味を示すことができた。『万葉』には末句を『見ゆ』と詠みきった歌が多いが、それらはおおむね魂振りの意味をもつ呪歌とみてよい。」(154頁)

「『見れど飽かぬ』は、その状態が永遠に持続することをねがう呪語であり、その永続性をたたえることによって、その歌は魂振り的に機能するのである。」(153頁)

 (註)「呪」の語源は「祝」であると白川は書いている。「呪」の字は「いのる」とも読む。「呪能」と同義で「呪鎮」と書くこともある。

「国見岩」

「岩戸神社」
「祭神
  大己貴命(おおなむちのみこと)」
「神徳
  善悪正邪の道をさとし霊妙な神威によって人生に奇瑞吉祥を恵与される」

「砥鹿神社 崇敬会」さんがつけてくださった、手すりが道案内をしてくれた。手すりがなければ危険で、参拝はとてもかなわなかった。


「岩戸神社」

 もう少し洗練された形で、お祀りしていただきたいと思った。

「読み・書き」に古社寺巡りが加わり、俄然忙しくなったが、依然 裁量は私の掌中にあり、窮屈な思いはしていない。
 神域は清らかである。仏像を仰ぎ、時の経過を忘れてしまうような時間こそないが、神域に身を置くことに意義があるのだと思う。
 すてきな週末だった。