折口信夫「冬至の日に,精霊ふゆる『ふゆ』」

中沢新一『古代から来た未来人 折口信夫』ちくまプリマー新書
「とても興味深いことに、「まれびと」論や芸能発生論ではもっとも重要な季節が冬至(とうじ)と夏至(げし)の季節におかれていたのに対して、『死者の書』(折口信夫著)で描きだされた新しい他界論では、春分と秋分の季節がもっとも重要な季節になっている。第一章で述べたように、冬至と夏至には、昼と夜の長さが極端(きょくたん)にアンバランスになり、そのときを選んで死者の霊が、生者の世界を大挙して訪問してくるのである。そのとき「あの世」との通路が開いて、仮面などで姿を隠(かく)した精霊が、舞(ま)いながら「この世」にあらわれてくるのだった」(86頁)
※ まれびと:折口信夫の用語。海のかなたの異郷(常世)から来訪して、人々に祝福を与(あた)えて去る神。

精霊ふゆる「ふゆ」
「多くの祭りが、昼と夜の長さがもっともアンバランスになる冬至と夏至に集中しておこなわれる。
 この冬至と夏至をはさんで、「古代人」は精霊(スピリット)をこの世にお迎(むか)えする祭りをおこなう。夏至をはさんだ夏のお祭りの期間には、死霊(しりょう)のかたちをとった精霊の群れが、生きている者たちの世界を訪問してくる。死霊には、まともな死に方をして、しかも子孫たちから敬われつづけている先祖の霊もいれば、横死をとげた幼い子供のうちに亡(な)くなってしまった者たちの浮かばれない霊もいる。そういう多彩(たさい)な死霊たちが大挙して戻ってくるのを、「古代人」は心をこめてお迎えしようとしたのである。
 その夏の時期の精霊来訪の祭りは、のちのち仏教化されて、お盆(ぼん)の行事となったけれど、そこには「古代人」の思考の原型がはっきり残っている。お盆の行事としておこなわれる「盆踊(おど)り」を見てみよう。
(中略)
 冬至をはさんだ一、二か月は、その昔は霜月(しもつき)と呼ばれて、やはり精霊を迎える祭りがおこなわれた。しかし冬の期間におこなわれるこの祭りでは、夏の精霊迎えの祭りとはちがった考えが支配的だった、というのが折口信夫の考えである。この期間、精霊の増殖と霊力の蓄(たくわ)えがおこなわれるのである。折口信夫の考えでは、「冬(ふゆ)」ということばは、古代の日本語に直接つながっている。「ふゆ」は「ふえる」「ふやす」をあらわす古代語の生き残りなのである。
 冬の期間に「古代人」は、狭(せま)い室(むろ)のような場所にお籠(こ)もりをして、霊をふやすための儀礼をおこなっていた、だからその季節の名称(めいしょう)は「ふゆ」なのである。人々がお篭もりをしている場所に、さまざまなかたちをした精霊がつぎつぎに出現してくる。このとき、精霊は「鬼(おに)」のすがたをとることが多かった。その精霊のあらわれを、折口信夫は長野と愛知と静岡(しずおか)の県境地帯の村々で、「花祭」や「冬祭」「霜月祭」などの名称ではなやかに続けられていた祭りのなかに、はっきりと見いだしたのである。修験道(しゅげんどう)や陰陽道(おんようどう)の影響(えいきょう)を受けて、中世的なかたちに変容をとげたそうした祭りをじっとみつめながら、折口信夫はその奥から、精霊の到来と霊の増殖をもたらそうとした「古代人」の思考を、あざやかな構造としてとりだしてみせた」(23-26頁)

「徹底的(てっていてき)に異質な領域が「ある」ことを、「古代人」は知っていた。つまり、世界は生きている人間のつくっている「この世」だけでできているのではなく、すでに死者となった者やこれから生まれてくる生命の住処(すみか)である「あの世」または「他界」もまた、世界を構成する重要な半分であることを、「古代人」たちは信じて疑わなかったのである。
 この他界と現実の世界をつなぐ通路が発見されなければならない。目にも見えず、思考がとらえることもできない「あの世」から、なにか不思議な通路を通って「この世」に出現してくるものがうまく表現されたとき、人は不幸な感覚から解放される。「この世」に生きている時間などはほんのわずかにすぎないけれど、それでも「この世」を包み込んでいる「あの世」があり、あらゆる生命が死ぬとそこに戻っていき、またいつかは新しい生命となって戻ってくることもあると知ることができれば、わたしたちはいつも満ち足りて落ち着いた人生を送ることができる。「あの世」と「この世」をつなぐ通路こそ、折口信夫の発見(再発見)した「まれびと」なのであった」(45-46頁)


 神話の喪失はどういった事態を招くか、それは神話の存在意義を解することでもある。
 共通の神々を戴くことで集合していた結束を失い、あるいは離散し、畏れ畏(かしこ)まることを忘れ、矜持は薄れ民度は低くなる。寄る辺なく寄す処(よすが)なく、活力なく、心的な安定を欠くようになる。日々神々とともに暮らしていた古代人にとって、神話の喪失は致命的であったといえよう。
 繰り返し読んでいると時代が交錯し、時の感覚が怪しくなってくる。
「古代」を「いま」に置きかえて読んだとき、さして違和感を覚えず、寄る辺なく依す処なく、活力なく、私たちは混迷の時代を生きていることが自覚される。
「人類の原初的な心の動き(13頁)」といまに生きる私たちの心の動きが不可分であることは容易に察しがつく。本書を通して相即不離の関係にある古代人の思考に触れたことの意義は大きい。
 畏まり居ずまいを正すことを久しく忘れた日本人が、美しくあることは困難である。
 書名の『古代から来た未来人 折口信夫』からは、未来を志向する折口信夫の姿が目に映る。「古代人である折口信夫」の思考は、現代という乱世の闇を照らす光となる。思いをいたせばいい。それは永劫に続く未来においても同様のことである。
 やはり折口信夫は、「古代から来た未来人 」であった。書名は的を射たものだった。