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「高野往還」

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2021/11/16(火) 未明に出立した。 ◆「伊吹山 PA (下り)」より「伊吹山」を望む。 ◆「 Hotel & Resorts NAGAHAMA(喫茶室)」 琵琶湖をぼんやり眺めていた。湖畔にたたずみ、さざ波の音に耳を凝らしていた。 ◆「渡岸寺(どうがんじ)」 美しく、慈愛に満ちた観音さまである。永劫を生きるお姿は不動だった。 「長浜市高月町 渡岸寺」 土門拳「考える臍」  2021/02/09 「薬師寺 金堂 日光菩薩立像腹部」 土門拳『古寺を訪ねて 奈良西ノ京から室生寺へ』小学館文庫  まるまるとふくらんだ下腹、指を突っ込んでくすぐりたくなるような大大としたお臍(へそ)、ここには飛鳥、白鵬の仏像には見られなかった肉体への目ざめが見られる。仏教流伝以来三百年、もはや仏菩薩を神秘的な「蕃神(ばんしん)」として、遠くから畏るおそる伏しおがむ段階は終ったのである。仏菩薩の存在そのものを信ずる心が、その像容の上にも、より確かな触覚的なものを期待しないではいられない欲求を、信仰する側に芽生えさせたことがわかる。(34頁) 「向源寺 十一面観音立像腹部」 土門拳『古寺を訪ねて 東へ西へ』小学館文庫  薬師寺金堂日光菩薩(やくしじこんどうにっこうぼさつ)の臍(へそ)には、指を突っ込んでくすぐりたくなるような触覚的な要素が芽生えていたが、そこにはなお古代的な、大々とした造形感覚が息づいていた。  この十一面のそれになると、そういう呑気(のんき)な、古代的な造形感覚は影をひそめてしまっている。一層実人(じつじん)的、写実的になったことはもちろんだが、それ以上に鋭い思想性が脈打つようになった。透鑿(すきのみ)のこまやかな刀法がうかがえるこの臍は、いわば考える臍である。(132-133頁) 「向源寺」はいま「渡岸寺(どうがんじ)」と呼ばれている。拝観券を兼ねたリーフレットにも「渡岸寺」と記されている。  幾度となく「渡岸寺」を訪ねた。そのたびに何度となく観音さまのお臍を拝見しているはずだが、いっこうに記憶にない。  昨夜 臍が語る深遠な仏教史のお話をはじめてうかがった。  うかつだった。  プロ、アマを問わず、カメラマンたちがファインダー越しに見つめている景色が気になる。傍にお邪魔することも、時には尋ねることもある。訓練された眼の行方が気になる。  臍は口ほどにものを言

TWEET「偽者 現わる」

「Facebook」なるものに、私と同姓同名、出身高校、大学・学部・専修も同じ、生年月日・住所(北海道士別市)・写真こそ異なりますが、男好きな「ニセモノ」が現れたことを、昨日友人から聞き、見せてもらいました。  友人には、自分で投稿しているのでは、と猜疑の目で見られています。が、私は「Facebook」は利用していませんし…。お心当たりはありませんか!自問自答してみてください!!  今後の「偽者のひとり歩き」、楽しみにしております。 「真贋」 小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫 「では美は信用であるか。そうである。」(233頁) 「胡蝶之夢」のようなお話ですね。もしかすると、私が「贋作」かもしれない、と思ってみたりもしています。

TWEET「重ねて言おう」

TWEET「自家撞着」  2021/11/01  いま作務をしながら、「自家撞着」という言葉について考えている。言霊をもち出すまでもなく、言葉を弄べば、いずれ言葉に足をすくわれるときがくるだろう。  井筒俊彦は、「存在はコトバである」と措定した。空海も然りである。  知らぬが仏、ということか。 小林秀雄「言霊」 2019/03/18  言葉には「言霊」が宿っているという古人の思想の意味するところを、宣長ほど、深く考えた人はいなかった。言葉は言霊という己れ自身の衝動を持ち、世の有様を迎えて、自発的にこれに処している。事物に当たって、己れを験(ため)し、己を鍛えて、生きている。(「全作品 28」『本居宣長(下)』所収「本居宣長補記 Ⅱ」371-372頁)

TWEET「されど呼称」

 いつの頃からか、呼称が、「塾長」から「イサオ」にかわった。と、軌を一にするようにして、物言いが横柄になった。高圧的で、高飛車な表現が目立つようになった。「イサオ」が関係をかえた。  カタカナは、外来の人・もの・ことに用いられるのが一般的である。極限 すれば、「イサオ」とは「外人」の呼称で あって、それは、「よそ者」「人で無し」を意味する。  時には「ホンダ」という表記も見られるが、それは専ら「本田技研工業」さんを指すものである。  夏以降、三回別れ三回和解し、いま四度目の待避中である。固定電話の電話線を抜き、PC、スマートフォンはブロックしてある。また、ゆうパックは受取りを拒否した。過去三回は、隙があり、自ら手に落ち、 一時的に関係が修復した。今回も予断を許さない状況下にあるが、これ以上の対策を講じるには、サーバーさんにお願いする他なく、費用も必要になる。 「人で無し」と交渉し、「人で無し」をいたぶって何が面白い のだろうか。そうこうする内に、当人も「人で無し」に転落するやも知れず、「人で無し」同士の交友は、傍迷惑で危険でさえある。

TWEET「転機のとき」

 いくらブログに引用した文章とはいえ、白川静、小林秀雄らの文章にいたっては、初読では覚束なく、再読三読を促されている。いくつかの誤読があり、理解があり、楽しく読んでいる。  2015/08/03 からブログを書きはじめ、六年余りになる。ブログという名の「読書感想文」とは、別離のときがきているように感じている。  「私(わたくし)」不在の短文 を、いくら書き連ねてみたところで、興趣に欠け、埒が明かない。  いましばらくは「活字離れ解消法」という、リハビリを続けるつもりでいるが、その後、ブログという形態から撤退するの かどうかも含めて思案中である。  その折には、きちんとご報告させていただきます。

TWEET「活字離れ解消の特効薬」

「白川静」で検索し、表示された 31個のブログを、昨日読んだ。断片的な、曖昧な記憶しかなく、新鮮だった。「 物むつかしきをり」には鈴を振った。  長田弘は「 再読は友情の証」( 日本放送出版協会 )と書いているが、私はブログに対し友誼までは感じていないが、少なからず親しみはある。 「ブログを読み直す」という読書で、活字離れは容易に解消されそうである。  今日は「小林秀雄」である。 白川静「中国の神話 ー 奪われたものがたり」 2021/02/28 の感想文、 「梅原猛が、『孔子伝』は絶対入れんならん、と言っているのは興味深い。『孔子伝』は絶対読まんならん、と思っている。「けったいな」『山海経』はちょっと横に置いておくとして、「違った神は信仰しない」「その神にあらざれば祀らず」とは潔く、殷も周も「神話を統一するという、そういう要求を持たなかった」のは、純粋な形として神話が残される格好になり、幸いだった。  神話の喪失はどういった事態を招くか、それは神話の存在意義を解することでもある。  共通の神々を戴くことで集合していた結束を失い、あるいは離散し、畏れ畏(かしこ)まることを忘れ、矜持は薄れ民度は低くなる。寄る辺なく寄す処(よすが)なく、活力なく、心的な安定を欠くようになる。日々神々とともに暮らしていた古代人にとって、神話の喪失は致命的であったといえよう。」 には、 「まる一日を費やし、辛酸を嘗めた。」 と書かれていて、おかしかった。

TWEET「再掲」

 ブログは間もなく埋もれ、その他多数に紛れてしまうのが一般的です。再読、また一人でも多くの方たちに閲覧していただきたくて、「revival」として再掲したブログが相当数ありますが、これらも同じ運命をだどるばかりで、すべて「下書き」にすることにしました。  昨日から「白川静」を読んでいますが、検索時には目障りで、見苦しく、忸怩たるものを感じています。  数時間を優に越える作業でした。前後の関係から、「下書き」にするわけにはいかない 「revival」や、 「revival」の閲覧数が多く、「下書き」にした場合、検索結果に影響を与えかねないと思われるブログもあり、一筋縄ではいきませんでした。  欲目に足をすくわれた格好です 。

TWEET「私の活字離れ解消法」

 私の、片隅に追いやられたブログを読むこと、一顧だにされ ない電子書籍を読むこと。 「白川静」を読みはじめました。白川静は、やはり大き過ぎます。

本居宣長「七種鈴」

鈴屋遺蹟保存会「本居宣長と鈴」 「鈴屋とは、三十六の小鈴を赤き緒にぬきたれて、はしらなどにかけおきて、物むつかしきをり引きならして、それが音をきけば、こころもすがすがしくおもほゆ。そのすずの歌は、      とこのべにわがかけていにしいへしぬぶ      鈴がねのさやさや  かくて、この屋の名にもおほせつかし。 宣長 」  私が、 「本居宣長記念館」 内の 「ミュージアムショップ 鈴屋」 さんで求めた 「 七種鈴 (松坂万古)」は、「門人知友」によって贈られた、「現在 鈴屋遺蹟保存会に遺されている(七つの)遺愛の鈴(「鉄或は青銅で造られた古鈴」 )」の「 松坂万古」版 である。  私は鈴を、七曜に分け、毎日一つずつ机上に置き、手遊びにしている。「七曜鈴」である。  この数日間はといえば、恨めしくも、メールや SMS への返信 、電話の応対に忙しく、「 物むつかしきをり」なく、専ら「魔除け」として、鈴を振るばかりだった。こういった事態には、低い音(ね)の鈴がよく、と知らされた ことが、唯一の収穫といえば収穫だった。 「物むつかしきをり」と「鈴の音」との相関については、いまだ不分明であるが、「物むつかしきをり」なく、秋の実りなし、とは自明なことである。

TWEET「秋の夜長の徒然に_焚き火だ!焚き火だ!!」

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昼の予行、夜の本番。 昨夜、庭で焚き火遊びに興じた。 薪のはぜる音、上昇する火の粉が美しかった。 においが気になった。燻製用の木々の使用が適当なのだろう。 「ささやかな焚き火です」 「炭火だ!炭火だ!!」。近日中に焚き火台で、また七輪で、炭火遊びをする予定である。   松阪市の「小津安二郎記念館」を訪れた際には、くすんだオレンジ色をした「豆炭行火(まめたんあんか)」 が展示されていて、子どものころを思い出した。 私にとっては、焚き火よりも炭火の方が懐かしく、たくさんの思い出がある。  焚き火の最中に、隣家の玄関のドアが大きな音を立てて開(あ)き、「クサイ」とだけ、子どもがぶっきらぼうに言い、乱暴にドアが閉められた。子どもの仕業ではないことは明らかであるが、どこ吹く風とやり過ごした。  当のご本人らは、年に何回かバーベキューをし、賑やかく、ということには一向に気が回らないようである。  不愉快な思いをするのは御免で、場所探しをする必要が生じた。 反省はしていない。

TWEET「秋の夜長の徒然に_告知編」

◆ 2021/10/30 に、 「毎秋(まいあき) 恒例の、作務に勤しむことにした。作務は修行の内のことである」 と書いた。三日坊主と、とかく悪様にいわれる時日(ときひ) もやり過ごし、また、 毎秋恒例になっている古社寺巡拝の旅に出ようと、小春日和のそろう日を見計らっている。紅葉時の人混みは避けたく、今回は高野山も視野に入っている。 ◆「中消防署」さんにおうかがいすると、焚き火台を使用しての、庭での焚き火は禁じられていません、とのことだった。ただし、たとえ一つにしても、ゴミを燃やすことは禁じられています、と何度か念を押された。  2020/05/22 に 「スノーピーク」の「 焚き火台 M スターターセット(3〜4人用)」を購入した。琵琶湖畔での焚き火への憧憬からである。そして、 2020/06/08 には「 火ばさみ」を、 2021/10/01に 「焼き網 Pro.」、2021/10/03 には「グリルブリッジ」を購入し、火遊びの準備を完了した。が、いま思えば、食に関心のない私には、「グリルブリッジ」と「焼き網 Pro.」は必要なく、また、一式を「ピコグリル」で揃えればよかった、と後悔している。  2021/09/27 には、河口湖畔で焚き火を経験したが、自分の道具仕立てでの、一人での焚き火は今回がはじめてである。  昼の予行、夜の本番。 「焚火に恐怖を覚えた。燃えて灰になる現実を注視していた。この事実をどのように受容し昇華すればいいのだろうか。  薪のはぜる音、上昇する火の粉が美しかった。」 「文化の日」にこそ、似つかわしい遊びである。

「自己本位といい、他己本位といい」

 青山二郎といい、小林秀雄、白洲正子といい、「青山学院」と呼ばれ、「昭和の文壇を華やかに彩った文士たち」は、超然として「自己本位」の境地に遊んだ。  井筒俊彦においては、これらは「コトバ」の自己分節であって、関心の埒外の出来事であったに違いない。意識の深みに「実在」を索め、その階層構造を明らかにし、ついには自身の深層言語学的哲学を展開するにいたった井筒にとって、表層意識への関心は希薄であったといえよう。  一方 漱石はといえば、「利己か利他か」に生涯執着し、その撞着が漱石に小説を書かせた、といえるかもしれない。安易な解決を許さなかった漱石は強靭な精神の持ち主だった。  さて、長らく「他己本位」という惨劇の最中(さなか)にあって、いま私は躊躇することなく「自己本位」に触手を伸ばす。それには多少の荒療治が必要かと感じている。  残された限られた時間、「悪しき道徳教育の、18歳の残滓」の虜になっている暇はない。 「拝復 P教授様_悪しき道徳教育の、18歳の残滓です」 2018/07/31 おはようございます。 我慢する、我儘は許されない、また反省する。 いずれもいずれも悪しき道徳教育の、18歳の残滓ですね。 この際きっぱりとお別れすることにします。 我慢しない。我儘に生きる。「反省なぞしない」。 無頓着で、無造作な、鷹揚で、無邪気な生活を心がけます。 盛夏です、酷暑です。容赦なしです。 くれぐれもご自愛ください。 FROM HONDA WITH LOVE. 追伸: 小林秀雄さんが、座談会にて、 「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」(『近代文学』昭和二十一年二月号) と話されています。

TWEET「自家撞着」

 いま作務をしながら、「自家撞着」という言葉について考えている。言霊をもち出すまでもなく、言葉を弄べば、いずれ言葉に足をすくわれるときがくるだろう。  井筒俊彦は、「存在はコトバである」と措定した。空海も然りである。  知らぬが仏、ということか。