投稿

4月, 2021の投稿を表示しています

TWEET「ごきげんよろしう」

2021/04/29 に、 ◇ 「本多勇夫 / なおかつ 折々の記_13」: 〜白洲正子編〜」 を「Kindle Direct Publishing」上に上梓し、いったん休止。今後編集作業を急ぎます。  2021/03/10 からはじめたことですが、2021/04/17 まで試行錯誤を繰り返し、満足に使いこなすことができませんでした。疲労、疲弊、消耗するばかりでした。  その後、2021/04/24 から 2021/04/27 の4日間には、総数 2000件を越えるアメリカ在住の方の閲覧が、昼夜を分かたずあり、猛威にさらされました。現在、2726件のブログを載せてあり、また重複したブログも相当数ありますので、全制覇していただいた、ということでしょうか。「ごきげんよう」とだけ申し上げておきます。 「ごきげんよう」とはずいぶん便利な挨拶語ですね。  では皆さん、「ごきげんよろしう」。すてきなGWをお過ごしください。    

TWEET「Kindle Direct Publishing_『本多勇夫 / なおかつ 折々の記_13』: 〜白洲正子編〜」

つい今し方、 ◇ 「本多勇夫 / なおかつ 折々の記_13」: 〜白洲正子編〜」 を、「Kindle Direct Publishing」にアップしました。 上梓されました。早速購入しました。 「明恵上人における徒者(いたづらもの)」 白洲正子『現代日本のエッセイ 明恵上人』講談社文芸文庫 「高山寺に住んでからの明恵は、変ないい方ですが、だんだん透き通って行くように見えます。」(124頁)  明恵上人が栂尾高山寺に移ったのは建永元年(1206)、34歳のときのことです。  以下、明恵上人の言葉です。  『仏法に能く達したりと覚しき人は、いよいよ(くの字点)仏法うとくのみなるなり』(遺訓)(124頁)  『我れ常に志ある人に対していふ。仏になりても何かせん。道を成じても何かせん。一切求め心を捨てはてて、徒者(いたづらもの)に成り還りて、ともかくも私にあてがふことなくして、飢え来たれば食し、寒来れば被(かぶ)るばかりにて、一生はて給はば、大地を打ちはづすとも、道を打ちはづすことは有るまじき』(125頁)  『生涯此の如く徒者に成り還らば豈(あに)徒(いたづら)なることあらんや』(遺訓)(125-126頁)  明恵上人における「徒者」とは、碍ることの無い境涯にある者、「仏法に能く達したりと覚しき人」のことである。仏は仏であってさえ、仏法は仏法であってさえ、また道は道であってさえならない。そして、それらを方便であると抛擲した明恵の境地や、無作為、無頓着、またその無関心ぶりは爽快である。 「お能はお能にも執着してはならないのだ」といった白洲正子の言葉を思い出す。

TWEET「Kindle Direct Publishing_『本多勇夫 / 重ね重ね 折々の記_12』: 〜小林秀雄編〜」

つい今し方、 ◇ 「本多勇夫 / 重ね重ね 折々の記_12」: 〜小林秀雄編〜」 を、「Kindle Direct Publishing」にアップしました。 上梓されました。早速購入しました。   小林秀雄の文章の美しさは、語の配列の美しさにある。ときに配される、落ち着きを欠いた語に、はっとさせられる。破調の「美」である。「神さま」の適材適所に狂いはない。   小林秀雄の文章に真偽を問うのは愚かである。日本語が、これほど精緻な「美」を成すことにまず驚く。「美」は、詮索に堪えない。 『真贋』を読みつつ、「真贋一如」ということを思った。「真贋」は、相補的な関係にあり、混然一体となっているところにおもしろみがある。「贋」なくして「真」はたちまちのうちに姿を晦(くら)ます。これほどつまらない世界はない。 「では美は信用であるか。そうである。」   あまたの「西行論」のなかで、私は小林秀雄の繙(ひもと)く、懊悩する西行の「美」の変遷を「信用」する。「美」は真偽の判断を竢たない。ひとえに「信用」の問題である。

「神の竪琴の演奏」

「神の竪琴の演奏」 2017/12/14 『ケルビムのごとき旅人』(『シレジウス瞑想詩集』植田重雄・加藤智見(ちけん)訳、岩波文庫、第五書[下、第五章])の箴言 三六六でこう言われています。  この根底に静かに神が宿っている人の心は、神が望むままに神に触れられるのを喜ぶ。だからその心は神の弾く竪琴である。  この箴言には「神の竪琴の演奏」という表題が付けられています。それこそがモーツァルトなのです。(164頁)  モーツァルトが聞く者たちのなかでもっともよく聞く者だったということ、つまり彼はそういう者として現生したのであり、したがっていまもなおそうだということなのです。(163-164頁)

TWEET「Kindle Direct Publishing_『本多勇夫 / 重ねて 折々の記_11』: 〜井筒俊彦編〜」

つい今し方、 ◇ 「『本多勇夫 / 重ねて 折々の記_11』: 〜井筒俊彦編〜」 を、「Kindle Direct Publishing」にアップしました。 上梓されました。早速購入しました。  ことば、言葉、コトバ、いま「ことば」の渦中にある。神、神々、霊、仏、に四囲を囲まれている。  学生時代からの関心事が一同に会した。  いくつもの偶然が重なっていまにいたった。  井筒俊彦は、「存在はコトバである」と措定した。「ことば」が一気に心底にまで達した。思いもよらぬことだった。これ以上の椿事はない。私の趣向のすべてが一括りに括られた。  井筒俊彦が語るのは哲学である。昇華されたものが、共時的に把捉されているのがうれしい。信仰なき私にとって、井筒俊彦と向き合う、その時々が救いとなっている。  この世に生を享けたからには、この世の始原について知りたいという欲求がある。そして、曇りなき眼で四囲を見つめたい。美は曇りなき眼が見つける。  私にとって井筒俊彦の著作は「実学」の書であり、実用の書であり、やむにやまれぬ書である。  そして図らずも、紆余曲折を経て、井筒俊彦の哲学の文章が、次第に読めるようになっていく過程が ◇「『本多勇夫 / 重ねて 折々の記_11』: 〜井筒俊彦編〜」 に記録されることになった。

TWEET「Kindle Direct Publishing_『本多勇夫 / なおなお 折々の記_10』: 〜岡潔編〜」

つい今し方、 ◇ 「本多勇夫 / なおなお 折々の記_10」: 〜岡潔編〜」 を、「Kindle Direct Publishing」にアップしました。 上梓されました。早速購入しました。  まずはじめに、岡潔,小林秀雄『人間の建設』は、紙数の都合上、本編に分類した。  「数学は語学に似たものだと思っている人がある」。「語学と一致している面だけなら数学など必要ではない。それから先が問題なのだ。人間性の本質に根ざしておればこそ、六千年も滅びないできたのだと知ってほしい」。  「数学史を見ても、生きてバトンを渡すことはまずない。数学は時代を隔てて学ぶものだと思う」。後進による問題の解決を、飽くことなく待つ「数学という学問体系」の楽観には感心する。 「よく人から数学をやって何になるのかと聞かれるが、」「私についていえば、ただ数学を学ぶ喜びを食べて生きているというだけである。そしてその喜びは『発見の喜び』にほかならない」。  岡潔の話は、私の抱いていた数学観とはずいぶん異なるものだった。また、たいへんな思索家でもあり、それが「情操」「情緒」の境地を深めることになった。  対談では、「初対面の二人が、延々十一時間しやべり続けて、一度も中座しなかつた」という。息の合った天才たちの対話は稀有な出来事であり、傾聴に値する。直接当書に当たってほしいと思う。本編がそのきっかけとなれば幸いである。

TWEET「Kindle Direct Publishing_『本多勇夫 / なお 折々の記_09』: 〜河合隼雄編〜」

つい今し方、 ◇ 「本多勇夫 / なお 折々の記_09」:〜河合隼雄編〜 を、「Kindle Direct Publishing」にアップしました。 上梓されました。早速購入しました。  河合隼雄先生の膝下で学ぶことが希望だった。が、願いはかなわなかった。   勝手に私淑することにした。  たいへんな読書家であり、対談集も多く出版され、いつのころからか、「河合隼雄というフィルター」を通して本を読む、という習慣が身についた。特に、哲学や宗教に分類される書籍の紹介はありがたかった。ひとり歩きは油断ならない。 ◇ 河合隼雄『明恵 夢を生きる』京都松柏社 は、1987/04/25 に出版され、間もなく読んだ。学生時代のことだった。明恵上人を知り、白洲正子を知った。井筒俊彦と出会い、はじめて華厳の世界に触れた。「華厳の世界」(284-290頁)に引かれた井筒俊彦の文章は明晰だった。コピーしてもち歩いた。そして、 ◇ 井筒俊彦『叡智の台座 ー 井筒俊彦対談集』岩波書店 を求めた。河合隼雄がとりもつ縁だった。しかし、その後長い間井筒俊彦との接点はなかった。  張り切りすぎて臨床の道に進まなくてよかった、といま思う。  とは別に、こちらは張り切って書いてみました。  ぜひご覧ください。

TWEET「悠長な話」

 2021/03/10 からはじめた。  消耗戦だった。  そして一昨日、 その理不尽さの全貌を知るにいたった 。 「Office」 純正の「 .doc /.docx」ファイルしか受けつけないことが解った。たとえば、「.pages」→ 「.doc /.docx」変換や、「.pages」→「.epub」「.pdf」に 変換したファイルははじかれた。  泣く泣く、「 Microsoft 365」を購入した。「.pages」から「.docx」ファイルにコピペ、その後、「すべての書式をクリア」し、「Kindle Direct Publishing」にアップすればいいことを知った。「プレーン」な状態である。今後整形し直す必要があるが、そのままに載せた 。一刻も早く書棚に並べたかった。一息つきたかった。 「小林秀雄編」「白洲正子編」「井筒俊彦編」、いまだ大御所が残っている。「河合隼雄編」はいま編集の最中である。  今回も、「Microsoft」一社の独占市場だった。結局 大樹の陰に、私も寄るしかなかった。負け戦だった。敗北感を味わった。 「プレーン」とは「 W ORD」における 「プレーン」な状態という意味であって、決して「テキストファイル」のことをいっているわけではない。  悠長な話である。    

TWEET「わずかばかりのうるおいを」

「ツキヨミの思想」 白洲正子『夕顔』新潮文庫 昔 小林秀雄さんに、「人間は何もしないで遊んでる時に育つんだよ」といわれてちょっと驚いたことがあるが、何もしないでいるというのは実は大変難しいことなのである。(234頁) 追伸:「彼岸で会いたい三人は?」との問いに、白洲正子は、西行、青山二郎、小林秀雄の名をあげています。白洲次郎とは、此岸で十分につき合ったからもういいわ、だそうです。 ◇ 以来、殺伐とした生活を送っています。少しうるおいました。

TWEET「Kindle Direct Publishing_『本多勇夫 / も一つ 折々の記_08』: 〜白川静編〜」

◆ 2021/04/13、未使用の「お絵かき帳」状態から抜け出し、「Kindle」で読むことができるようになりました。「 頑是ない私の歌」です。 ぜひご覧くださいませ。長い道のりでした。 ◆ 懇切丁寧に教えていただき、原因は解ったのですが、いまだ非表示・白紙状態、「お絵かき帳」状態になっております。いましばらくお待ちください 。 つい今し方、 ◇ 「本多勇夫 / も一つ 折々の記_08」: 〜白川静編〜 を、「Kindle Direct Publishing」にアップしました。 上梓されました。早速購入しました。  本編には、はじめて上梓した、「本多勇夫 / 折々の記_01」と重複している内容が相当数含まれています。試行編と思い、当初はたいした考えもなく、 ◇ TWEET「寒夜の明月」(2020/12/31 ) から、 ◇ TWEET「Kindle Direct Publishing」(2021/03/11 ) までの、総数 40のブログを載せました。その内に白川静先生についての叙述が少なからず含まれていた、ということです。  私にとって、「白川静」先生の書名のない連作は考えられず、今回、「も一つ」に乗じて、「『本多勇夫 / も一つ 折々の記_08』〜白川静編〜」を上梓させていただきました。  白川静は神々との交通の整理役に徹した。その旗振りはみごとだった。白川は意のままにペンを走らせた。長年月にわたる白川の、神々との交際が結実した。神々は、「字書三部作」の偉業をさぞお慶びになられていることだろう。  神々に愛された人、白川静はやはり大き過ぎる。

TWEET「Kindle Direct Publishing_『本多勇夫 / まだまだ 折々の記_07』: 〜夏目漱石編〜」

◆ 予期せぬ不具合の発生により、非表示状態、白紙状態、「お絵かき帳」状態になっております。ただいま交渉中です。親身になっていただいております。いましばらくお待ちください 。 つい今し方、 ◇ 「本多勇夫 / まだまだ 折々の記_07」: 〜夏目漱石編〜 を、「Kindle Direct Publishing」にアップしました。 上梓されました。早速購入しました。 此の憂誰(た)れに語らん語るべき一人の君を失ひし憂 寺田寅彦「思ひ出(いづ)るまゝ」 十川信介 編『漱石追想』岩波文庫(128頁)

TWEET「Kindle Direct Publishing_『本多勇夫 / まだ 折々の記_06』: 〜大野晋編〜」

◆ 予期せぬ不具合の発生により、未出版状態のままになっております。申し訳ありませんが、復旧までいましばらくお待ちください 。 つい今し方、 ◇ 「本多勇夫 / まだ 折々の記_06」: 〜大野晋編〜 を、「Kindle Direct Publishing」にアップしました。 上梓されました。早速購入しました。  大学では日本文学を専修した。今回 橋本進吉先生の『古代国語の音韻に就いて 他二篇』岩波文庫 を三十年あまりぶりに再読した。  精緻な研究から成った成果である。「万葉仮名の用法を精査し」、そして「奈良時代の大和地方の言語は八十七の音節を区別する音韻体系を持つものであったことを発見」された。  大野晋がその後進に当たった。それは有無を言わせないものだった。  学習院では「大野ススメ」と呼ばれ、司馬遼太郎からは「先生は、抜き身の刀のような方ですね」といわれた大野と、「石橋を叩いても渡らない」といわれた質朴、朴訥な橋本との性格の相違は歴然としているが、 「日本語に美しい秩序があることを若い人たちに知らせたい」 という点においては一致していたといえよう。また大野は、 「おそらく先生は日本語の文法だけでなく、音韻の体系についても美しい秩序を見ておられたに相違ない。心の底ではそのことを先生は人々に語ろうとされたのではなかろうか」 とも述べている。  日本語は美しい。 追伸:気まぐれな Amazon に弄ばれて散々な毎日を送りました。還暦を迎えた今日を境に、つかず離れず、気の向くままにおつき合いすることにしました。もう Amazon のご機嫌とりはしません。  老い先は短く、 「我儘」に「気儘」に「自己本位」に生きます。もちろん「反省なぞしません」。   還暦を迎えた今日の、我が「 立志」です。

TWEET「Kindle Direct Publishing_『本多勇夫 / 又々 折々の記_05』: 〜司馬遼太郎編〜」

◆ 予期せぬ不具合の発生により、未出版状態のままになっております。申し訳ありませんが、復旧までいましばらくお待ちください 。 つい今し方、 ◇ 「本多勇夫 / 又々 折々の記_05」: 〜司馬遼太郎編〜 を、「Kindle Direct Publishing」にアップしました。 上梓されました。早速購入しました。  司馬遼太郎の「歴史小説」について書いた文章ではないことをはじめにお断りしておきます。  司馬遼太郎が是とした「すがすがしさ」。 「すがすがしさ」とは漢字で表記すれば「清々しさ」であって、換言すれば、司馬遼太郎は「美しくあること」をもって是とした、と私は解釈しています。「すがすがしくあること」、また「美しくあること」は、行住座臥、あらゆる方面についてまわる試金石です。明恵上人の「阿留辺畿夜宇和(あるべきようは)」を思い出します。  宗教を哲学として平易な言葉で語っていただけたことのありがたさ。歴史に生身の人間が息づいていることへの歓心。歴史を見はるかす目の確かさ、またその明晰さ。いましばらく、博覧強記にして言葉を自在にあやつる司馬遼太郎の史観に沈潜したいと考えております。

TWEET「Kindle Direct Publishing_『本多勇夫 / 又 折々の記_04』: 〜中井久夫編〜」

◆ 予期せぬ不具合の発生により、未出版状態のままになっております。申し訳ありませんが、復旧までいましばらくお待ちください 。 つい今し方、 ◇ 「本多勇夫 / 又 折々の記_04」:〜中井久夫編〜」 を、 「Kindle Direct Publishing」 にアップしました。 上梓されました。早速購入しました。 「ある教育の帰結」 中井久夫『「思春期を考える」ことについて』ちくま学芸文庫 「高度成長は終わったが、そのバランスシートはまだ書かれていない。しかし、その中に損失として自然破壊とともに、青春期あるいは児童期の破壊を記してほしいものである。われわれは大量の緑とともに大量の青春を失ったと言えなくもない」 (68頁) ◆保護者の皆さま、また教育関係者の皆さま方、ぜひご覧になってください。 「看護できない患者はいない」 中井久夫『看護のための精神医学』 医学書院  看護という職業は,医者よりもはるかに古く,はるかにしっかりとした基盤の上に立っている。医者が治せる患者は少ない。しかし看護できない患者はいない。息を引き取るまで,看護だけはできるのだ。  病気の診断がつく患者も,思うほど多くない。診断がつかないとき,医者は困る。あせる。あせらないほうがよいと思うが,やはり,あせる。しかし,看護は,診断をこえたものである。「病める人であること」「生きるうえで心身の不自由な人」──看護にとってそれでほとんど十分なのである。実際,医者の治療行為はよく遅れるが,看護は病院に患者が足を踏み入れた,そのときからもう始まっている。 (2頁) 「精神科医・中井久夫が患者と家族に接する流儀は、絶望の淵にある人びとの治療への士気を高め、『希望』を処方することだった。  精神医学とは縁もゆかりもない一般読者である私が、「いまなぜ中井久夫なのか」といえば、それは、中井久夫先生の患者さんに対する眼差しであり、姿勢であって、患者さんご本人やそのご家族、また医師や看護師、さらには職員の方々への「言葉」です。お心配りであってご配慮です。文章であってその巧みな比喩表現です。  そして何よりも、中井久夫先生の著作を読ませていただいていると、気持ちが楽になります。  中井久夫先生はその著『こんなとき私はどうしてきたか』 医学書院  のインタビュー記事の中で、  「こんなこと言うでしょ?『若いときは病気はわか

TWEET「Kindle Direct Publishing_『本多勇夫 / 続々 折々の記_03』: 〜推薦図書編〜」

◆ 試行錯誤の末、無駄な時間を過ごすばかりで、あきらめました。 2021/04/21 に、 ◇「本多勇夫 / それ行け 折々の記_03」:〜推薦図書編〜 と改名し、「Kindle Direct Publishing」に上梓、購入しました。 前回同様、苦し紛れの命名でした。 ◆ 予期せぬ不具合の発生により、未出版状態のままになっております。申し訳ありませんが、復旧までいましばらくお待ちくだい 。 つい今し方、 ◇「本多勇夫 / 続々 折々の記_03」:〜推薦図書編〜 を、「Kindle Direct Publishing」にアップしました。 苦し紛れの命名、「〜推薦図書編〜」です。陸続(?)と棚に並ぶはずの端緒です。