臼井吉見「言わでものこと 敬愛する現場の指導者へ」
「国語教科書批判」
丸谷才一『完本 日本語のために』新潮文庫
ーー(湯川豊)丸谷さんの中学生時代も教科書は文部省の検定制で、何種類かから先生が選んで採用していたんですか。丸谷 そうですよ。そのうち『岩波国語』は、第一に文学的に質が高くてしっかりしたいい文章が載っていた。第二に皇国史観的、軍国主義的な文章がなかった。一年のときに教わった他の社の教科書は『岩波国語』と対蹠(たいせき)的にひどいものでした。
国語教科書で僕がいままでに感心したのは、明治時代に坪内逍遥がつくった『国語読本』、それから僕が教わった『岩波国語』、戦後のものでは筑摩書房の教科書がかなりいい。しかし、一番いいいのは谷川俊太郎や大岡信がつくった小学一年のための『にほんご』(福音館書店)で、これは検定を受けようという気持ちがなくてつくったものらしく、すばらしい出来です。その四つです。
教科書批判をやるときに全部の教科書を集めて目を通したのですが、筑摩の教科書は突出してよかった。しかし、採択率は問題にならないくらい、一番低い。
筑摩の編集者に会ったとき、その教科書をやんやと褒めて、しかしどうしてあんなに採択率が低いのかと聞いたことがある。すると彼がいうんです。地方自治体の教育委員が東京に出てくるとなると出版社にあらかじめ連絡がある。東京にくると、後楽園球場に連れていって野球を見せて、それからキャバレーに連れていって、接待をするんですって、各社こぞって。もちろんそのあとの面倒も見る。それで「うちの営業の連中はそんなことをするより帰って本を読みたいってのが揃(そろ)ってますから、まあ仕方がない」というんですね。僕はそれを聞いて、「もし俺が筑摩の営業だったら、日本中の子どものために、毎晩後楽園にも行き、キャバレーにもいって教科書を売るがなあ。会社のためにじゃなく、子どもたちのために」といった記憶があります。
ーー(湯川豊)うーん、ただ唸(うな)るのみですね。(324-324頁)
◇『にほんご』福音館書店
再読、遅読の必要を感じています。
また、
◇『名指導書で読む 筑摩書房 なつかしの高校国語』ちくま学芸文庫
が気になっていました。市内の書店で手に取ってみるのは絶望的で、筑摩の営業の方たちの頑張りに期待するほかありませんが、期待薄と悟り、注文し、いま手元にあります。
『名指導書で読む 筑摩書房 なつかしの高校国語』ちくま学芸文庫
言わでものこと 敬愛する現場の指導者へ 臼井吉見
実際授業を見せてもらって、いまもときおり思い浮かべるのは、中島敦の「山月記」です。最後に教師が突如として、人間存在の非条理性と板書されたときはさすがにたまげました。これは教師の頭の中の言葉ではあっても、生徒の前に持ち出す符牒でははありますまい。僕だったら、仮にこんなどこかで覚えた口まねをして得意になっている生徒があったら、徹底的な質問責めによって、何にもわかっていないことを悟るまで打ちのめすでしょう。そんな符牒の持ち出しでしめくくるなんてとんでもないこと、詩人になりそこねて虎になってしまった男の悲しみは、作者の中島敦どころか、考えてみると自分たちのどこかにもつながるものであることを思い至らしめて、ドキっとさせなくては、国語教育とは申せますまい。どうやらそれができたら、カフカの小説に論及するような脱線をやらかしても、それほどとがむべきではないでしょう。教師の権威をたもつためにも。しかし、国語教室では、教師の権威は抑えられるだけ抑えて、もっぱら教材の権威を発揮させるべきではないでしょうか。たとえば独歩の「春の鳥」の場合、こんな文字どおり珠玉の短篇は、だまって読ませるしかテはないと思いますがどうでしょう。僕のひとり合点では、独歩のもので一つえらべといわれたら、躊躇なくこの一篇をあげますが、明治文学を通じて一篇ということになっても、「春の鳥」をえらぶつもり。こんないたってわかりいい渾然たる作品になると、教師は口一つはさめるはずがない。教師が口をきくだけ、生徒の理解と観賞をさまたげること必定です。どうぞ国語教室で、演説使いや手品師のまねはやめてください。(017-018頁)
「言わでものこと」,「敬愛する」,「指導者へ」。まず、題名からして手厳しく、以上の文章を前にして、「演説使いや手品師のまねはやめ」るに如くはなく…。
独歩の『春の鳥』は「青空文庫」で読めます。私は再読しましたが、この作品の評価についても読者の皆さんにお預けすることにいたします。
「言わでものこと」。私の定期テスト対策用の、また入試対策用の「国語教室」は荒れ放題です。