井上靖『本覚坊遺文』_「利休どのに殉じたのだ」

井上靖『本覚坊遺文』講談社文芸文庫
しかし、それとは別の理由で、わしもまた織部どのの死を予見していた。ただ口に出さなかっただけのこと。
 ーー ーーー
 ーー織部どのは死ぬ時を探しておられた。
 ーー ーーー
 ーー織部どのにお会いする度に、いつも、この人は死ぬ時を探しているなと思った。
 ーー ーーー
 ーーそうではなかったか。
 (本覚坊は)そう言われても一言も口から出すことはできなかった。ただ小刻みに体が震えてくるのをどうすることもできなかった。右手を縁側の板の上につき、体を折って、目を瞑っている。
 ーーが、人間というものはみな、念じればそのようになる。利休どのが亡くなられてから何年目か、そう、二十四年か、二十五年か、漸くその時を摑まれた。どうしてその時を逃すだろう。しかも、思いもかけないことだが、それは利休どのの場合と同じ形でやって来た。
 ーー ーーー
 ーー罪に服したのではない。利休どのに殉じたのだ。
 それから。
 ーーまあ、この話はこれだけにしておこう。誰にでも話せることではない。それにこれが真相であるかどうかは知らぬ。ただ(織田)有楽がそう思っているだけのこと。そこもとはどのように考えるか。
 ーーわたくしには、そのようなことは、とんと判りません。織部さまのあのような御最期がただただ悲しいだけでございます。世間では御謀反などと、ーー。
 ーー謀反か、そういうことになると難しい。本人に訊いてみないと判らぬ。が、おそらく織部どの自身は知らぬことであったろう。しかし、まわりにそのような動きはあったかも知れぬ。が、本人が知らぬことならば、いくらでも申し開きはできる筈、が、それはしなかった。
 ーーどうしてでございましょう。
 ーー面倒臭かったのだろう。茶を本気で点てていたら、そんなことは面倒臭くなる! それよりも、折角の機会だから、利休どのが申し開きをしないで相果てたように、自分もまた、そのようにしようと思われたのではないか。それが殉じるというもの。
 判るような、判らぬようなことではあったが、有楽さまのお言葉の中には、いささかも、織部さまを傷つけているところはなさそうであった。
 ーーお辛かったでございましょうか。
 ーー辛くはなかったであろう。(118-120頁)


「面倒臭かったのだろう。茶を本気で点てていたら、そんなことは面倒臭くなる!」
の文に接するや、小林秀雄の歯切れのいい言葉を思い出した。

若松英輔『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』慶應義塾大学出版会
「小林は、ランボーが詩を棄てた原因を、『面倒になった』からだといった。」 (166頁)

 かたや武人 織田有楽の言であり、かたや小林秀雄の物言いである。
「面倒臭かった」,「面倒になった」
これらの言葉の前後で局面が大きく展開している。物事が明るくなっている。
この符合は面白い。「死と再生」の物語の転機に、
「面倒臭かった」,「面倒になった」
が置かれている。織部は利休に殉じることによって再生した。
「面倒になった」と打ちやることの意義について思いを巡らせている。
です。