井上靖『本覚坊遺文』_「冷え枯れた磧(かわら)の道」

井上靖『本覚坊遺文』講談社文芸文庫
 ーーあの道は余ひとりの道。本覚坊などの入ってはならぬ道。
 ーーどうしてでございましょう。
 ーー茶人としての利休の道。他の茶人には、それぞれ別の道がある。師紹鷗には師紹鷗の道がある。宗及どのには宗及どのの道。本覚坊が昵懇な東陽坊どのには東陽坊どのの道がある。が、いいか悪いかは知らぬが、利休は戦国乱世の茶の道として、あの冷え枯れた磧の道を選んでしまった。
 ーーあの道は、一体、どこまで続いているのでございましょうか。
 ーー際限なく伸びている。しかし、合戦のなくなる時代が来ると、誰にも顧みられなくなってしまうだろう。あれは利休ひとりの道だから、利休と共に消えるがいいと思っている。
 ーー師お一人の道?
 ーーと言っても、少し先きを山上宗二どのが歩いて行っている。わしのあと、もし歩く者があるとすると、古田織部どのということになろうか。まあ、それで終わる。
 ここでぷっつりと師利休の声は切れた。そしてもう二度と師の声は聞えて来なかった。(190頁)

“無ではなくならん、死ではなくなる” と山上宗二さまがおっしゃったあの茶室(山崎の妙喜庵)で、本覚坊は、御自刃直前の師利休にお目にかかり、そしてお話を伺ったのである。師利休のお話には、本覚坊の理解できるところもあり、理解できないところもあるようである。しかし、師は、本覚坊がこのところ、日夜考えに考えているところに沿って、それを御自分の言葉で話して下さったようである。
 あの冷え枯れた淋しい道の上に、師利休をまん中にして、山上宗二さまと古田織部さまが、前と背後を歩いていらっしゃる。そのことの意味を、師利休はおっしゃりたかったのではないかと思う。今になると、しきりにそのように思われてならない。宗二さまも、織部さまも、死を賜った時、師利休と同じように、茶人として、初めて何ものかをお持ちになり、そこで静かに茶をお点てになって、そこから脱け出すことはお考えにならなくなったのかも知れない。しかし、こうしたことは本覚坊などの立ち入ることのできない世界のようである。(195-196頁)
ー 目録・終り ー

「終章」最後の「日録」,「二月七日、癸酉、天晴 ー 註、元和八年、陽暦三月十八日 ー 」からの引用である。 “最終章” である。本覚坊の「醒めるために見た夢」(白洲正子「昭和と私」)のことどもである。

高橋秀夫の解説「内なる声の語り」には、
「しかしここで考え合わせなければならないのは、本覚坊は文書、記録に名をとどめた実在の人物であるものの、「本覚坊遺文」という手記は実在せず、作者の創作であるということである。」(200頁) 
「この作品発表後、『本覚坊あれこれ』『「本覚坊遺文」ノート』という文章が書かれているが、それによると、天正十六年九月四日の茶会 ー これはこの作品の第一章でくわしく述べられている ー と、天正十八年九月二十三日朝の茶会の二回、本覚坊の名前が茶会記にのこされているという。
 また別に、本覚坊に宛てた利休自筆の書状が一通、大徳寺の僧春屋宗園の本覚坊宛てのものが二通あるという。しかし利休死後、いかなる場所にも本覚坊の名は記録されていない。結局これは、完全に利休のかげの中に入ってしまった人物であった。」(202頁)
との記載がみられる。
 つまり、「本覚坊遺文」は「井上靖遺文」であり、作者が本覚坊に仮託した格好をとっている。「遺文」の宿命であるともいえようが、井上靖(本覚坊)の自問自答は、時に舌足らずで難解である。問題の提出にこそ、井上靖の手柄があるということだろう。