小林秀雄「無私な全的な共感に出会う機会を待つ」

 書店の参考書売り場で、通りがかりに、
◇『2021年度受験用 豊田工業高等専門学校』英俊社
を手に取り、レジへ向かった。時期尚早のため、「国立高専」の過去問しか並んでいなかった。2860円というお値段に慌てた。

 国語 大問2 の問題文を幾度
か読んだ。引用した古文を題材にしての考察(鑑賞文)である。
 以下、その出典を最近のものから順に並べたものである。
◇ 中西進『ことばのこころ 』東京書籍
◇ 藤田正勝『日本文化をよむ 5つのキーワード 』岩波新書
◇ 大輪靖宏『なぜ芭蕉は至高の俳人なのか』祥伝社
◇ 小林一彦『NHK『100分de名著』ブックス 鴨長明 方丈記』NHK出版
◇ 森朝男『読みなおす日本の原風景 古典文学史と自然 (はなわ新書)』塙書房
 うかつにも中西進しか存じ上げなかった。「三夕の歌」が二つの問題文で話題になっている。明恵上人の名が見えるのもうれしい。

 なかでも中西進の作品が際立っている。『紫式部日記』の冒頭部分,「三夕の歌」を引いての「秋」についての随想である。
 「特段にどこの何が秋めくというのでもなく、それでいて秋のけはいがたつという季節の体感こそが、じつはこの国の秋の感触なのだろう。
 空もおおかたの様子が艶だといい、秋のけはいとともに感じるものは、これまた風のけしきだという。
 とくに涼気が漂ってきた、天地宇宙の全体が緊張へと向かっていく、そんな季節の移行が秋なのであろう。」
 「こうした作者の目や耳に、あれこれの景物が一つの生命体をなして感じられることこそ、自然の季節を深めゆく営みとの、いちばん深い対面なのであろう。
 この文章が、名文をもって聞こえる理由も、そこにあるにちがいない。
 自然は人事を包含してしまうものだということを、この文章を見ながら、わたしはつくづくと思う。」
 「また三首に共通することば遣いは、「なかりけり」「なき」「なかりけり」という否定である。秋の風景は否定の言い方と、心の深奥(しんおう)の部分で、無意識的に結びついているのにちがいない。」

 古文の出題はなく、「大問2」がそれに相当する。受験時に古典を楽しんでもらうには格好の題材となっている。心憎い演出であるが、受験生泣かせの問題であることは想像に難くない。
 理科の天体分野、公民の需要供給曲線の問題を各一題ずつ解いた。「大問2」を含めて後は手つけずの状態である。
 十分にやり尽くした、という感を抱いている。後は必要に応じて、ということである。

幾時の間にか、誰も古典と呼んで疑わぬものとなった、豊かな表現力を持った傑作は、理解者、認識者の行う一種の冒険、実証的関係を踏み超えて来る、無私な全的な共感に出会う機会を待っているものだ。機会がどんなに希れであろうと、この機を捕えて新しく息を吹き返そうと願っているものだ。物の譬えではない。不思議な事だが、そう考えなければ、或る種の古典の驚くべき永続性を考えることはむつかしい。宣長が行ったのは、この種の冒険であった。(『本居宣長』130-131頁)