井上靖『本覚坊遺文』_「茶人として刀を抜くしかありません」
ーーよく覚えているな。
ーーそれは覚えております。宗易(利休)、生涯での記念すべき日でございます。あれ(坂本の茶会で初めて太閤さまの御茶頭という資格で席に臨んで)から今日まで足かけ八年、上さまにお仕えしてまいりましたが、いよいよお別れの日となりました。永年に亘っての御愛顧、御温情のほど、お礼の申し上げようもございません。
ーーなにも別れなくてもいいだろう。
ーーそういうわけには参りません。死を賜りました。
ーーそうむきにならなくてもいい。
ーーむきにはなりません。上さまからはたくさんのものを頂いてまいりました。茶人としていまの地位も、力も、侘数寄への大きい御援助も。そして最後に死を賜りました。これが一番大きい頂きものでございました。死を賜ったお蔭で、宗易は侘茶というものがいかなるものであるか、初めて判ったような気がしております。堺へ追放のお達しを受けた時から、急に身も心も自由になりました。永年、侘数寄、侘数寄と言ってまいりましたが、やはりてらいや身振りがございました。宗易は生涯を通じて、そのことに悩んでいたように思います。が、突然、死というものが自分にやって来た時、それに真向うから立ち向った時、もうそこには何のてらいも、身振りもございませんでした。侘びというものは、何と申しますか、死の骨のようなものになりました。
ーーそれはそれでいいではないか。むきにならない方がいい。
ーーでも、上さまは今はそのようにおっしゃいますが、上さまは上さまとして、本気で刀をお抜きになりました。お抜きになってしまいました。そうなると、宗易は宗易で、茶人として刀を抜くしかありません。(183-185頁)
ーーそれは覚えております。宗易(利休)、生涯での記念すべき日でございます。あれ(坂本の茶会で初めて太閤さまの御茶頭という資格で席に臨んで)から今日まで足かけ八年、上さまにお仕えしてまいりましたが、いよいよお別れの日となりました。永年に亘っての御愛顧、御温情のほど、お礼の申し上げようもございません。
ーーなにも別れなくてもいいだろう。
ーーそういうわけには参りません。死を賜りました。
ーーそうむきにならなくてもいい。
ーーむきにはなりません。上さまからはたくさんのものを頂いてまいりました。茶人としていまの地位も、力も、侘数寄への大きい御援助も。そして最後に死を賜りました。これが一番大きい頂きものでございました。死を賜ったお蔭で、宗易は侘茶というものがいかなるものであるか、初めて判ったような気がしております。堺へ追放のお達しを受けた時から、急に身も心も自由になりました。永年、侘数寄、侘数寄と言ってまいりましたが、やはりてらいや身振りがございました。宗易は生涯を通じて、そのことに悩んでいたように思います。が、突然、死というものが自分にやって来た時、それに真向うから立ち向った時、もうそこには何のてらいも、身振りもございませんでした。侘びというものは、何と申しますか、死の骨のようなものになりました。
ーーそれはそれでいいではないか。むきにならない方がいい。
ーーでも、上さまは今はそのようにおっしゃいますが、上さまは上さまとして、本気で刀をお抜きになりました。お抜きになってしまいました。そうなると、宗易は宗易で、茶人として刀を抜くしかありません。(183-185頁)
ーーお気に召さないといって、死を下さいました。堺追放をお言渡しになった時、見栄も外聞もなく、上さまは本当の上さまになられました。茶がなんだ、侘茶がなんだ、そんなものは初めからたいしたものとは思っておらん。付合ってやっただけだ。そんなお声が聞えました。上さまが本当の上さまになられたことで、宗易もまた本当の宗易にならねばなりませんでした。お陰さまで宗易は本当に、長い長い間の夢から覚めることができたように思います。(185-186頁)
ーー侘茶の世界。それはなんと長い間、私にとっては不自由な世界であったことでございましょう。でも自分の死を代償として、それを守ろうとした時、それは一瞬にして、生き生きした、しかも自由な世界に変りました。(187頁)
ーー御命令で堺に移りましてから、ずっと死が見えております。茶の湯は、己が死の固めの式になりました。茶を点てても、茶を飲んでも、心は静かでございます。死が客になったり、亭主になったりしてくれております。師の紹鷗が、連歌の極みは枯れかじけて寒いというが、茶の湯の果てもまたかくありたいものであると。そのようなことを言っておりましたが、その枯れかじけて寒い心境というのは、こういうものであろうかと、何回思ったことでございましょう。
__……
ーーそれにつけても、枯れかじけて寒いこの心境に、宗易の前にたくさんの武将の方々がお坐りになっていたかと思います。その時々の名だたる武将の方々の茶室に於けるお姿が眼に浮かんで参ります。御茶頭として上さまのお力に縋り、それに守られていた宗易が一番茶の心から遠かったのではないかと思います。羞かしいことでございます。
ーー判った、判った。気を取り直して茶を飲もう一服点ててくれ。それにしても道具らしい道具は一つもないではないか。
ーー茶碗と茶入と茶杓がございます。ほかのものは何もございません。妙喜庵の茶室を造りました頃から、余分なものは一つ、一つ失くすように心掛けてまいりました。が、いくら物をなくして行っても、最後には自分だけが残ってしまいます。が、いよいよその自分を失くす時が参ったようでございます。
ーーもういいではないか。今まで通り余のために茶を点ててくれ。どうして、そんな神妙な顔をしている?
ーー上さまがお優しいからでございます。(187-188頁)
ーーどうぞ、もうお引きとり遊ばしますように。では上さま、これでお別れいたします。
__……
ーーでは、上さま。(187-190頁)
「終章」最後の「日録」,「二月七日、癸酉、天晴 ー 註、元和八年、陽暦三月十八日 ー 」からの引用である。 “最終章” である。本覚坊の「醒めるために見た夢」(白洲正子「昭和と私」)のことどもである。
宗易は「茶人として刀を抜」いた。
「死が客になったり、亭主になったりしてくれております」
末期の眼にしか映じないものがある。
「お能はお能にも執着してはならないのだ」
白洲正子に倣っていえば、「侘茶は侘茶にも執着してはならないのだ」ということになろうか。