井上靖『本覚坊遺文』_「死の固めの式」

井上靖『本覚坊遺文』講談社文芸文庫
 ーーそんなものは茶ではない。茶人と茶人が尤もらしい顔をして茶を飲んだって始まらぬ。雪が降ったのは、恰好がつかないので雪の方で降ってやったのだ。わしは一生のうちに、これが茶会だなと思ったことが一度だけある。
 そう切り出されて、本覚坊の話は向うへ押し遣って、ご自分の話をそれにお替えになった。
 ーー大坂夏の陣に於て河内でいち早く討死した木村長門守重成どのを、その半歳前に大坂の余の茶室に迎えたことがある。客は既に半歳先きに迫っている死を覚悟していた。木村長門守にとっては今生最後の茶であった。それが余にはよく判った。何と言うか、それは自分が死んでゆくことを自分に納得させる、謂ってみれば死の固めの式であった。それに余は立ち合わせて貰った。茶はこのようなものであったかと思った。
 有楽さまはおっしゃった。その時の有楽さまの、有楽さまらしからぬ固いお顔が眼に浮かんでくる。めったにお見せにならぬ生真面目なものがお顔を走っていたと思う。
(中略)
 このようなことにあれこれ思いを馳せている時、師利休もまた有楽さまと同じようなことを言われたことがあったと、思いは師利休に移った。
 ーー永禄四年に堺で物外軒(三好実休)どののために茶を点てたことがある。一年先きの死を予感されていた。囲(茶室)に入ってから出るまで終始見事であった。客より五、六歳ほど年長の亭主であったが、亭主の方が及ばなかった。押されづめに押されていた。
 師利休は言われたが、有楽さまと同じようなおっしゃり方だったと思う。そう言えば、師利休は、また高山右近さまの茶についても言われたことがあった。
 ーー自分より三十歳も若い南坊(高山右近)どのであるが、今日はどうしても及ばないと思った。尤も今日に限ったことではない。いつも同じような思いにさせられる。どこかに自分を棄てて、これが最後といったところがある。あの静かさは普通では出て来ない。誰も及ばない。
 天正十八年十二月の終りに、右近さまを一亭一客でお迎えになった日の夜のお話である。
(中略)
 それはそれとして、師利休がお褒めになるように、本覚坊の眼にも高山右近さまはいつも御立派に見えた。もし茶室に於けるお姿の立派だった方を一人選ぶとすると、本覚坊の場合も亦、高山右近さまということになりそうである。バテレン信者というものがいかなるものであるか、本覚坊如きの知ろう筈はないが、死を覚悟しているという見方をすれば、高山右近さまには、いつもそういうところがおありだったかと思う。そういうところを、師利休は自分の及ばないところとお考えになっていらっしゃったのであろう。
 師利休は高山右近さまに、有楽さまは木村長門守さまに、それぞれ敵わぬもののあったことを、素直に認めていらっしゃるのである。そういうところは天下の大宗匠の大宗匠たるところで、余人の真似て及ばないところかと思う。(175-177頁)

 師利休は、太閤さまが茶室に入って一番御立派だった時は、天正十年から十一年にかけてであったとおっしゃったことがあった。天正十年は明智さまを山崎に破った年であり、天正十一年は柴田勝家さまを北ノ庄に討った年である。太閤さまは太閤さまで、やはりあの二つの合戦を前にして、師利休立ち合いのもとに、死地に向う式、死の固めの式を執り行われたということであろうか。(178頁)


以上は、
井上靖「太閤さまはその度に死を賜っていた」
と同様、「終章」の二番目の「日録」,「十二月廿九日、丙申、天晴」からの引用である。
 そしてそれは、最後の「日録」,「二月七日、癸酉、天晴 ー 註、元和八年、陽暦三月十八日 ー 」へと続く。 “最終章 ” である。本覚坊の「醒めるために見た夢」(白洲正子
昭和と私」)のことどもである。
 それにしても思い出すのは、小林秀雄のことばかりである。

小林秀雄「平家物語」
小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫
「(『平家物語』の)一種の哀調は、この作の叙事詩としての驚くべき純粋さから来るのであって、仏教思想という様なものから来るのではない。「平家」の作者達の厭人(えんじん)も厭世(えんせい)もない詩魂から見れば、当時の無常の思想の如(ごと)きは、時代の果敢無(はかな)い意匠に過ぎぬ。鎌倉文化も風俗も手玉に取られ、……」(147頁)

小林秀雄「当麻」
小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫
「室町時代という、現世の無常と信仰の永遠とを聊(いささ)かも疑わなかったあの健全な時代を、史家は乱世と呼んで安心している。
 それは少しも遠い時代ではない。何故なら僕は殆(ほとん)どそれを信じているから。(77頁)