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「辰濃和男『歩き遍路―土を踏み風に祈る。それだけでいい。』海竜社_師走に『四国遍路』を渉猟する」

一昨日(2021/12/31)の夕刻すぎ、 ◆ 辰濃和男『歩き遍路―土を踏み風に祈る。それだけでいい。』海竜社 を読み終えた。  たくさんの言葉に接し消化不良を起こしている。 「土を踏む」ことと「風に祈る」こと、それだけでいいというのは、その二つの単純な動詞さえ大切にすれば、あとのことは重要であっても最重要ではない、という意味だ。 「土を踏む」、つまり日々、歩くことをつづければ、どんな御利益があるだろう。  まず、野生をよみがえらせることができる。いいかえれば、生命力が強くなる。  自立心がます。楽天的な思いが湧く。なにごともセーカイセーカイダイセーカイ(正解正解大正解)だと思う。おろかで、欠点だらけの自分に出あうことができる。へんろ道は己の「魔」を照らす「照魔鏡」である。  そして、人との大切な出あいがある。  たくさんのお接待をいただき、手をあわせる。感謝をする。そのことが、人間が生きるうえでの基本だということを知る。  感謝はさらにひろがる。大自然の営みへの感謝がある。  大自然の営みに感謝する祈り ー それこそが「風に祈る」ということだ。私の体験のなかでは、「土を踏む」ことが「風に祈る」ことにつながり、「風に祈る」ことが「土を踏む ことをさらにうながしている。(337頁) 「土を踏む」という言葉が、何百万年前の太古にさかのぼるのに対して「風に祈る」という言葉は一輪の花から宇宙空間にまでひろがってゆく。「風に祈る」の「風」は、風そのものだけではなく、空・風・火(光)・水・地という宇宙を象徴する言葉の代表選手として使っているつもりだ。  究極の祈りは、宇宙の営みへの感謝の祈りである。(「あとがき」341頁)  へんろ道は「祈りの空間」である。(「あとがき」340頁) ◆ 高群逸枝著,堀場清子校註『娘巡礼記』岩波文庫 「高群は出かける前「道の千里をつくし、漂泊の野に息(いこ)はばや」と書いている。  高群が四国を回ったのは一九一八年で、二十四歳のときだった。六月から十月までの長い旅である。当時のへんろ道では、「山で若い女が殺されたり、姦(おか)されたり」することがあるという噂話もあった。しかし高群は書く。「でも構はない。生といひ死といふ、そこに何程の事やある」という意気込みだった。  顔や手足に虫が這う草むらで野宿をする。小川のそばに毛布を敷いて寝る。テントも寝袋...

「地下足袋で歩きながら、つらつらと」_セエーカイセエーカイダイセエーカイ 6/

「地下足袋で歩きながら、つらつらと」_セエーカイセエーカイダイセエーカイ 辰濃和男『四国遍路』岩波新書  お遍路をはじめてから、いつのころからか、夜、宿で夕食を終え、床につき、天井を見上げながらセエーカイセエーカイダイセエーカイとつぶやくことが多くなった。子どもじみた話で気恥ずかしいことだが、漢字で書けば「正解正解大正解」である。  今日もいろいろあったけれども、まあ、なんとかいい一日を過ごすことができたと思う。失敗も数々あったが、上出来の日だったと思いこむ。自分をそう思うように仕向ける。そのための呪文がこれだ。お参りしながらナムダイシヘンジョウコンゴウ、ナムダイシヘンジョウコンゴウ、セエーカイセエーカイダイセエーカイとなってしまうことが再三あった。  どちらの道を行こうか、どこまで歩いて行こうか、どの宿にしようかと迷うことがある。どんなに迷っても、一度きめてその道を選び、一度きめてその宿を選んだ以上は、その選択が「正解正解大正解」だったと思う。そう思いこむ。選択が間違っていたかどうかなどといつまでもぐじぐじ考えず、まずは正解だったと思う。それも一つの修行だろう。  セーカイセーカイダイセーカイというつぶやきがでてくる。迷ったからこそ、いまこの小宇宙に独りでいることができる。深い山の懐にあって、雲の流れをこころゆくまで眺めることができる。見渡す限り、人の姿はなく、山々は深い沈黙のなかにある。なんとぜいたくなことだろう。これこそ、大正解でなくてなんだろう。そんな感じをもった。   この世に生きていれば、迷うことばかりだ。小さな迷いもあり、大きな迷いもある。迷わない、という人がいればそれは自分を偽っているのだ。迷ったら、立ち止まればいい。立ち止まって新鮮な空気を思いっきり肺に流し込めばいい。迷ったことで初めて得られる体験、というものがあると思えばいい。  迷って遠回りをすることを恐れることはない。百の道のうち一つを選ぶということは、九十九の道を失うことになるのだ。失った九十九の道に執着することはない。どの道を選んでも、たくさんの道を失うことに変わりはない。それよりも、自分が選んだ道を楽しむことだ。  私たちは日常の暮らしで、迷うことを恐れすぎているのではないだろうか。  いまはもう消えてしまったらしく、見つけることができなかったが、昔、四十三番明石寺にこんな立て札があっ...

「地下足袋で歩きながら、つらつらと」_再会 5/

「再 会」   辰濃和男『四国遍路』岩波新書  土との融和、について書きたい。  四十六番札所浄瑠璃寺をお参りしたとき。名誉住職、岡田章敬師に話を聞いた。 「土はお地蔵さんだ」と師はいう。 「お地蔵さまの本体は土そのものなんです。真言宗の秘密の解釈として「地蔵は土なんぞお」と先輩がもらすことがありました。地球そのものがお地蔵さまなんですね。土の中からたくさんの草が生えてくる。あれはお地蔵さまの活動の表れなんですよ」 「私どもも土から生まれてきて、死んだあと土に帰ってゆくんですな。私は、死んだら骨壷などに入れないでじかに土に入れてもらいたいといっているんです。土に帰ってお地蔵さまに抱かれたい、と思いますね」  人は土をコンクリートで覆うことに熱中してきた。舗装道路はぬかるみをなくし、車の流れをよくしたが、お地蔵さまの力を封じこめ、人を土から遠ざけてしまった。私たちは土に触れることが少なくなり、お地蔵さまの力を感じとる機会が少なくなった。 (中略)  金子みすゞの詩に。「かあさん知らぬ / 草の子を、 / なん千万の / 草の子を、 / なん千万の / 草の子を、 / 土はひとりで育てます。 / 草があおあお / しげったら / 土はかくれてしまうのに」  章敬師流にいえば、草の子を育てているのは地蔵の力なのだ。土は手柄話はしない。何千万の草の子を育てたんだなどと自慢げにいったりしない。しかも、草が育ったあと、土は隠れてしまい、黙って次の草の子を育てる準備に入る。それこそが大いなるものの営みなのだろう。そこには、際々しいさかしらごころというものがない。 (157-158頁) 『四国遍路』で金子みすゞさんに出会うとは思ってもみませんでした。  長い間顧みられなかった金子みすゞが見出され、1984年8月に、 ◇ 金子みすゞ,与田準一『金子みすゞ全集』JULA出版局 が発売されると、間もなく購入しました。卒業論文のテーマを、金子みすゞにしようか、種田山頭火にしようかと迷いつつ、それなりの資料に目を通しました。山頭火について読む中で、同じ無季自由律俳句の大山澄太に出会うのは当然の成り行きでした。結局、金子みすゞも種田山頭火も私の手には負えず、「倉本聰 シナリオ文学私論」という題名で、私は卒業論文を書きました。学生時代には、早坂暁さんのテレビドラマを見ていました。また、何冊かのシ...

「地下足袋で歩きながら、つらつらと」_履く 4/

「8 履く」  辰濃和男『四国遍路』岩波新書  薬王寺を過ぎると、あとは海辺の道を歩くことが多くなる。初遍路では軽登山靴を履いていたが、あのときは、ちょうどこのあたりで右の膝を痛め、足をひきずりながら歩くことになった。    こんどのお遍路で選んだのは、山歩きのときに履く愛用の革製登山靴だった。靴のなかには、うすい靴下と厚手のウールの靴下の二枚を着用している。むれる感じはあるが、両足が堅固に守られている安心感がある。 「そんな靴じゃ、重たくて歩きにくいでしょ」。そういって私の登山靴を見つめるお遍路さんもいたが、「とんでもない。この靴のおかげで快調です」とむきになって反論した。反論はしたものの、いかに堅固な靴に守られていても、足のあちこちに痛みがでてくるのは避けられない。絆創膏(ばんそうこう)やらをべたべたと足に貼るのが朝の行事になった。    長丁場では靴の選択はきわめて大切な意味をもつ。  遍路修行の若いお坊さんに出あうと、私はまず足元を見る。たいていは真新しいウォーキングシューズで、地下足袋や草履の坊さんはまずいない。「地下足袋で足を痛くした先輩の話をよく聞きますからね。このごろは、みなウォーキングシューズか登山靴です」。修行僧がそういっていた。  名僧山本玄峰は一八七〇年代、何回も四国遍路をしているが、記録によると裸足(はだし)で回ったという。目がかなり不自由だったうえの「裸足参り」である。厳しい修行を己に課すためのお遍路だった。  一九一八年にお遍路をした高群逸枝は草履だった。  演歌師、添田啞蟬坊(そえだあぜんぼう)は一九三〇年代前半、何年間もお遍路をしているが、このときは地下足袋だ。  種田山頭火も地下足袋だ。一九三九年の遍路日記に、地下足袋が破れて、左の足を痛めて困っていたところ、運よくゴム長靴の一方が捨ててあるのを見つけた。それを裂いて足袋代用にしたので助かった、と書いている。  草履ー地下足袋ー歩行用の靴、という変遷をたどって、登山靴派が現れた。  引用が長くなってしまいましたが、私の今の興味は「履く」ことにありますので了解していただくことにして、早速 登山靴で舗装された道路を歩いてみようと思っています。  吉田宿の近くに住んでいます。まず手はじめに、近辺の東海道を歩いてみます。デイパックを背負って東海道を歩いている人たちが結構います。今ま...

「地下足袋で歩きながら、つらつらと」_動詞を大切にする。3/

  なにはともあれ、六十八歳から七十歳までの間に続けた私の「区切り打ち歩き遍路」は終わった。たくさんのことを学んだ。いちばん大きいのは「動詞」を大切にする、ということだった。  動詞は、抽象的、論理的なことがらが苦手で、人のからだやこころの動きに寄り添っているところがある。等身大で、具体的で、行動的だ。そういう動詞の数々と親しむ生き方をお遍路は教えてくれた。(225頁) 辰濃和男『四国遍路』岩波新書   目次には、 誘われる、着る、歩く、いただく、打たれる、出あう、はぐれる、履く、 解き放つ、突き破る、泊まる その一、包みこむ、体得する、あこがれる、食べる、ほどこす、 痛む、泊まる その二、迷う、修行する、回る、融和する その一、遊ぶ、ゆだねる、 哭く、死ぬ、捨てる、融和する その二、洗う、結ぶ、 の、三十の動詞と、そして番外として、 番外 登る が記されています。  辰濃和男さんのご案内で八十八ヶ所を巡る旅は、三十一の動詞に思いをめぐらせる旅でもありました。  四国遍路に誘われ、いま 石鎚山にあこがれています。

「地下足袋で歩きながら、つらつらと」私のへんろ道です。2/

今年  はじめての本です。 ◇  辰濃和男 『四国遍路』岩波新書  あれこれ拾い読みはしていましたが、一冊の本を通読するのは今年(2016/01/13)になってはじめてです。  第一刷は、2001/04/20 に発刊されています。私の手元にあるのは、 2001/05/10 に発行された第三刷です。およそ15年の積読を経て、ようやく日の目を見ることになりました。  つい今しがた、父のつき添いで行った歯科医院から帰宅しました。待ち時間に読んでいました。南に面した暖かな日射しの射す待合室で、うつらうつらしながらの読書でした。 「菅笠と金剛杖は新しいものを買った。菅笠には「同行二人(どうぎょうににん)」と書かれていて、さらに 迷故三界城 悟故十方空  迷うが故に三界(さんがい)は城 悟るが故に十方(じゅっぽう)は空 本来無東西 何処有南北 本来東西無し 何処(いずく)にか南北有らん  と書かれている。迷えば狭い枠のなか、悟れば宇宙のただなかだ、風にまかせて歩くだけ、といった意味だろうか。  お遍路の旅は、たとえひとり歩きでも、「同行二人」だという。いつもお大師さんがついていてくださるという意味で、それでは「お大師さんがついていてくださる」とはどういうことなのか。これをからだで知るまでには長い道のりが必要なのだ。」(14-15頁)  辰濃和男さんの書かれた『四国遍路』は、私のへんろ道をはじめるにあたっての恰好の道連れです。「同行三人」です。

「辰濃和男『四国遍路』岩波新書_師走に『四国遍路』を渉猟する」1/

昨夕(2021/12/25)、 ◆ 辰濃和男『四国遍路』岩波新書 を、二回目の接種後に読み終えた。二巡目の読書だったが、多少のことを思い出すにすぎなかった。 「へんろ道」は生と死、死と再生の交錯する道である。「はぐれびと」たちの行き交う道である。  辰濃さんが、千数百キロメートルを、七十一日かけて歩いた道であり、本書は多くの話題から成っている。  「出あったときが別れだぞ」  松原泰道師は父の祖来和尚からそう教えられたという。(中略)泰道師は一期一会(いちごいちえ)について書いている。「一期は人間の一生、一会はただの一度の出会いです。これほど「一」の肅然としたたたずまいを感じる語は、他に類例をみません。(『禅語百選』祥伝社、一九八五年 43頁)  陳腐に成り下がった語が息を吹き返した。これは、 「それ(戦国武将がのぞんだ茶会)は自分が死んでゆくことを自分に納得させる、謂ってみれば死の固めの式であった。」 ( 井上靖『本覚坊遺文』講談社文芸文庫  175頁)   でも経験した。  自省・自責・自虐の言葉には嫌気がさした。文章の品位を失する。もうやり過ごした時節のことであり、 「そんな方法では、真に自己を知る事は出来ない、さういふ小賢しい方法は、むしろ自己欺瞞に導かれる道だと言えよう。」(小林秀雄『人生について』角川文庫 36頁) と、いまは確信している。  空海は、 「吾れ永く山に帰らん」 と言い遺している。 原始 の森、いのちの息吹き、 太古の闇。 いま、「石鎚の霊峰」がしきりに気になる。 「澗水(かんすい) 一杯 / 朝(あした)に命(めい)を支え / 山霞一咽(さんかいちいん)/ 夕に神(しん)を谷(やしな)ふ」(朝には清らかな水を飲んで命を支え、夕には山の気を吸って霊妙な精神を養う)(9-10頁) 「高野往来」 以降、四国路がにわかに迫ってきた。 以下、「 辰濃和男『四国遍路』岩波新書_ まとめて」です。 ◇ 「地下足袋で歩きながら、つらつらと」私のへんろ道です。 ◇ 「地下足袋で歩きながら、つらつらと」動詞を大切にする。 ◇ 「地下足袋で歩きながら、つらつらと」履く ◇ 「地下足袋で歩きながら、つらつらと」再会 ◇ 「地下足袋で歩きながら、つらつらと」セエーカイセエーカイダイセエーカイ

小林秀雄「美は人を沈黙させる」

昨夜(2021/12/27)、 ◆ 小林秀雄『人生について』角川文庫 ◇「私の人生観」 を読み終えた。一読後、間をおかずに再読した。  幾度か目を通したお馴染みの文章であるが、いまだに釈然としない内容もあり、それは後日を期すほかないだろう。  本評言は、講演の記録であるが、小林秀雄は講演の逐語録の出版を許さず、その後、推敲・加筆されたものである。「私の人生観」という軽薄な「課題」は、主催者の意向であり、小林秀雄は、仏教のいう「観」「観法」から話をはじめ、そ知らぬ顔をしている。  画は、何にも教えはしない、画から何かを教わる人もない。画は見る人の前に現存していれば足りるのだ。美は人を沈黙させます。どんな芸術も、その創り出した一種の感動に充ちた沈黙によって生き永らえてきた。どの様に解釈してみても、遂に口を噤むより外はない或るものにぶつかる、これが例えば万葉の歌が、今日でも生きている所以である。つまり理解に対して抵抗して来たわけだ。解られて了えばおしまいだ。解って了うとは、原物はもう不要になるという事です。 (中略)  俳句ぐらい寡黙な詩形はない、と言うより、芭蕉は、詩人にとって表現するとは黙する事だ、というパラドックスを体得した最大の詩人である。 (中略)  現代小説に関して、評家達は、思想性が足りぬとか仮構性が足りぬとかいろいろの註文をつけている様ですが、私が強いて註文をつければ、沈黙が一番足りまいと言うでしょう。 (中略)  言霊を信じた万葉の歌人は、言絶えてかくおもしろき、と歌ったが、外のものにせよ内のものにせよ、言絶えた実在の知覚がなければ、文学というものもありますまい。(54-55頁)  いったん沈黙に捕えられるや、ただ茫然と立ち尽くすばかりである。時間の、また空間の所在が曖昧になる。沈黙が私を拐(さら)ってゆく。自足した、充ちたりたときに身を委ねる。  最近では、このような至福のときを求めて、旅をし、また読書を重ねている。 「観」「観法」から敷衍された多くの話題は、それぞれが皆独立した作品のテーマとなるような、深刻な題材ばかりであり、小林秀雄はこれらを私たち読者に預けるような格好で展覧した。  一時(いっとき)に多くのものを負ったように感じている。

團伊玖磨さんの波及効果「ひこうき雲」7/7

 昨日(2015/09/05)、消息を絶った「戦闘機」を捜し求めて、ネットサーフィンしているうちに、思わね副産物を手に入れました。團伊玖磨さんの波及効果です。  團伊玖磨さんは、荒井由実さんの曲について、下記のように書かれています。いずれも「孫引き」です。 「はじめにきいたのは『紙ヒコーキ』『ひこうき雲』など。それからはいろいろ。それらを耳にして、非常に驚き、感激もしたのです。なぜならば、そこには、過去の日本の作曲家がやろうとしてできなかった、べたべたしたものからの飛躍があったからです。」 (「朝日新聞」七七年一月十一日夕刊) 「先ず、詩が良い。それと同時に、メロディーに不要な装飾が無く、その事が詩を生かすのだと言う事も気付いた。この娘の上には、いつも曇り空が拡がっていて、どの歌からも、クールな、現代の無愛想さが、不思議なリリシズムとなって流れてくる。そして、よく聴いていると、一見無愛想に動くような動かないようなメロディーが、単に決して無愛想なものでは無い事が感じられてくる。」  (團伊玖磨『好きな歌・嫌いな歌』文春文庫)  昨年の夏 20年あまりぶりに映画館に行きました。宮崎駿さんの「風立ちぬ」を見ました。荒井由美さんの「ひこうき雲」は「風立ちぬ」の主題歌です、と書きましたが、昨日はじめて知りました。早速 iTunes Store で求めて聞いています。両作品の底流をなす切なさ、哀しみに心が痛みます。 「風立ちぬ」には、堀越二郎が美味しそうに煙草を吸う幾つかの場面が出てきます。だいじょうぶなのかな、と思って見 ていました。すると、数日後の asahi.com には、「風立ちぬ」には、主人公が美味しそうに煙草を吸うシーンがたくさんあり困惑している、という主旨の、嫌煙団体さんからのお叱言が掲載されていました。さすがの嫌煙団体さんも、宮崎駿さんを相手にしては、批判の切っ先が鈍ったのか、あたりさわりのない表現でした。  TAMIYA の「三菱 零式艦上戦闘機」のプラモデルを買いました。堀越二郎技師を設計主務者として設計された零戦です。塗料も筆も接着剤も、一式そろえましたが、作るのが惜しくていまだにそのままにしてあります。 追伸: 下世話な話ですが…。 ヒロインの里見菜穂子の「きて」という言葉が印象的でした。

團伊玖磨『パイプのけむり_書籍紹介』朝日新聞社 6/7

團伊玖磨『パイプのけむり』朝日新聞社  学生時代 P教授の下宿にお邪魔した際、『パイプのけむり』をすすめられました。雑然とした P教授の下宿は宝の山でした。既刊分はたちまち読み終えました。  愉快でした。痛快でした。  音楽の世界は新鮮でした。たくさんの人たちを知り、各国各地への道案内もしていただきました。食についても多くのことを学びました。私にとって、團伊玖磨さんは「ダンチガイ」の人でした。 今後(2025/09/06)印象に残っている作品について書く予定でいます。 To be continued.  ◇ 下記、 「團伊玖磨ノート」 より抜粋させていただきました。 制作から18年を要しいまだに未完成という、みごとな、息の長いお仕事ぶりです。すてきなウェブサイトです。 下記、書名です。 たとえば、二段目の「1967」年に発刊された「続」との表記は、書名が『続 パイプのけむり』であることを示しています。以下、「パイプのけむり」を添えて読んでください。 パイプのけむり   続             (1967)   続々         (1968)   又             (1969)   又々         (1970)   まだ         (1972)   まだまだ    (1973)   も一つ     (1975)   なお         (1976)   なおなお    (1978)   重ねて     (1980)   重ね重ね (1981)   なおかつ (1982)   またして (1983)   さて         (1984)   さてさて (198...

團伊玖磨『パイプのけむり』_三題 5/7

「ソラ・ソラ・シラミ」 團伊玖磨『パイプのけむり』朝日新聞社 「戦争中、陸軍軍楽隊の上等兵だった時は、同じく上等兵だった作曲の芥川也寸志君と二人で、編曲室と書いた木札をぶら下げた隊内の一室に籠り、大きな木の机を中に、向かい合って坐ったまま、何となく仔細らしい顔付きをして毎日を過ごしていた。」  「そんなある日の午後、虱が一匹机の上を這っているのを芥川君が見付けた。  「虱だね」彼が言った。  「虱だな」僕が言った。 (中略)  「虱だね」と彼がつまらなそうに言い、  「虱だな」と僕もつまらなくそう言いながら、退屈していた僕達は、どちらからともなく一寸したゲームを始めた。  虱 ーしらみ、これは、ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ドの、つまり、音階名の中に含まれている名前である。si・la・mi ーこの小さな旋律を二人で歌っているうちに、この si・la・mi の三音符からなる小さな旋律が、妙に情緒のある音型であるので、二人は全く嬉しくなってしまい、それを少し延ばして、   そらそら虱!   どらどら虱!   見れど見れど虱!   虱!  という、全部ドレミファの中にある発音だけでそのまま歌える小さな歌を共作して、それを楽しんで歌っているうちに、どうやらこれは、少々演技を付けて歌った方が面白かろうということになり、(後略)」 「マッハ1.3」 團伊玖磨『又 パイプのけむり』朝日新聞社 「心の中で緊急脱出の手順を復誦し終ると、僕は、第二0六飛行隊長大◯勝美三佐に伴われて飛行場に出た。丁度上空に漂っていた薄雲の割れ目から射した陽の光の大きな縞の中に、燦然と、今日これから乗るF104戦闘機は数機並んでいた。  「あの一番右側の501号機が、これから貴方に乗って戴く機です。操縦は隊長の私がいたします。」 「では八丈にさよならをして上昇します。八丈と房総の間の海上で、超音速飛行とアクロバット飛行を行ないます。」 「では、ぼつぼつ霞ヶ浦でも見物して、百里の基地に帰りましょう。それにしても、團さん、貴方は職業を間違えましたね。パイロットになれば良かった。少しも怖わがらないばかりか、もっとロールをしろとか、背面の儘飛べとかは、怖ろしくて、仲々素人は言えないものですよ。」 「帰り、土浦の一つ先きの石岡から乗った常盤線の夜の列車の中で、僕は、一人で考えていた。今日の飛行は僅かに五十分だった。...

「團伊玖磨さんの七転八倒 『薬研堀』」4/7

「薬研堀」 團伊玖磨『パイプのけむり 選集 食』  味噌汁にぱらりと薬研堀(やげんぼり〈唐辛子〉)を振りかける。その程度なら一寸(ちょつと)乙なものだと思う。ところがその程度では最早(もはや)僕には効(き)かないのである。従ってどうするかと言うと、蓋(ふた)を開(あ)けて、がさがさと内容を味噌汁に落とし、箸(はし)でかきまわして、真赤な汁を作り、それを辛さに打ち震えながら飲むのである。口中猛火に焼け爛(ただ)れるが如(ごと)く、激痛は咽喉(のど)から食道まで及ぶ。身体(からだ)に怖(おそ)らく悪(わ)るいだろうと反省はするのだが、どうにもこうにも、こうしなければ味噌汁なんぞは飲んだ気もしない。  味噌汁だけならまだ良いのだが、何から何まで薬研堀で真赤にまぶさなければ食べた気がせず、この頃は、刺身だろうが茹(ゆ)で卵だろうがキャベツ巻きだろうがスパゲッティだろうが、要するに何から何までを真(ま)っ赤(か)っ赤(か)にして涙ながらに物を食う。如何(いか)なるところに原因があってこんな恥ずかしいことになってしまったのか、全く他人(ひと)にも言えやしない。  辛子気狂いになったのは、生まれてから二度目である。今から二十何年前、兵隊だった時、一度辛子病になったことがあった。その時は理由がはっきりしていて、あまりの空腹のため、軍隊の食事が足らず、普通に食べればすぐに食べ切ってしまってあとには不満が残る。そこで、戦友と語らって、外出の機会に薬研堀を買って来て、滅茶々々に飯の上に振りかけて食べた。そうすると、辛さのために早く食べることが出来ず、ゆっくり食べることとなり、何がなし食べたという満足が残るのだった。そして、不思議なことに、殆んどあらゆる食品が統制されていた戦争末期にも、どういう訳か、七味唐辛子だけは自由販売であって、又、軍隊の中に持ち込んでも叱られなかった。  その時はそういう賤(いや)しさが原因で辛子を好んだから原因が判るとして、一体何でこの頃急に辛子が欲しくて欲しくてたまらないのかは、どう考えても判らない。(16-17頁,20-21頁)

「動詞_食す その一」3/7

 一日の多くの時間を台所で過ごしていました。平成二一年のことです。ただひたむきにつくり、ひたむきに食していました。エンゲル係数の大きな生活をしていました。 「食」の手ほどきは、 ◇ 團伊玖磨『パイプのけむり』シリーズ 朝日新聞社 で受けました。学生時代のことでした。今、 團伊玖磨『パイプのけむり選集 食』小学館文庫 が出版されています。 空腹が満たされればそれでよし、と心得ていた私にとっては新鮮な驚きでした。  文化人類学の講義で、「カニバリズム(食人俗)」の話題に話がおよんだとき、摩訶不思議な食生活をされている西江雅之先生は、 「私は『人を食ったことはない』が、『人を食った話』はする」 とおっしゃられていました。 「食べられる物」と「食べる物」の違い 「食べ物」は「食べられる物」のほんの一部 「食べ物」は「文化」である 「食べ物と制約」 こんな話もうかがいました。 そして、2012/11/19 には、 ◇ 西江雅之『「食」の課外授業』平凡社新書 が出版されました。 鉢山亭虎魚『鉢山亭の取り寄せ 虎の巻』オレンジページ 「三十代から四十代にかけて十年間、池波正太郎の膝下で男の生き方を学んだ。しかし、十年がかりの勉強で私が何とか身につけたと思っているのは、ただ一つ、 「必ず来る死に向かって、有限の時間を着実に減らして行くーーそれが人の一生だよ。ことに男はそうだ。女には子を生むことによって永遠の生命を生き続けるという特権がある。男にはそれがない。だから毎日、きょうという一日が最後と思って酒を飲め。そう思って飯も食え。」 「食す」ことは人生の一大事であることを思いしらされた私は一念発起しました。例によって形から入りました。「食」について書かれた本を読みあさり、調理器具や調味料、香辛料等々を一通りそろえ、実際に料理をし、食すまでには結構な時間がかかりました。

「團伊玖磨、ちいがわかる男の哀しみ_トルコ・コーヒー」2/7

「トルコ・コーヒー」 團伊玖磨『パイプのけむり 選集 食』   十年も前の事だった。インスタント・コーヒーの宣伝に出て欲しいとの申し込みを受けた。何でも「ちがいがわかる男」とか言うキャッチ・フレーズで、インスタントのコーヒーを飲んでいる姿を写真とヴィデオに撮るのだと言う。貧乏な作曲家にとっては目の玉の飛び出るような礼金も約束されていた。然(しか)し、コーヒーには色々な淹れ方があって、その色々な淹れ方を楽しんでいる男が、ちがいがわかる等と言ってはインスタント・コヒーのメーカーや販売元に悪かろうと考えた。そして、この話しはお断りした。あとでお金が必要だった時、あno 時の宣伝を引き受けていたならとの思いがちらちらと脳裡(のうり)を横切りはしたが、嘘(うそ)を吐(つ)く訳には行かなかったのだから致し方無い。  トルコ・コヒーの香りの中で、ふと、急に昔の事を思い出した。そして、矢張り嘘を吐かなくて良かったと思った。 (218頁)

團伊玖磨「食_料理って?」1/7

團伊玖磨「食_料理って?」 「北京烤鴨子」  團伊玖磨『まだまだ パイプのけむり』  香港に居る、親しい料理通の馬浩中さんが言った言葉を思い出す。或る時、香港では一番美味な烤鴨子〈北京ダック〉を食べさせるというので、よく僕達が行く、九龍のネーザン・ロードとキンバーリー・ロードの角に近い皇后大酒楼で、僕達は鴨子を餅(ビン)に包みながら話していた。北京生まれの彼は、何時(いつ)ものように礼儀正しく、然し一寸(ちょっと)得意そうにこう言った。 「ね、團さん、僕はね、中國料理、西洋料理、日本料理をさんざん食べた末にこう思うのですがね。どうも、本当に料理と呼べるものは中國料理だけだと思うんですよ。料理という語は、料と理という二字から成っていますね、西洋料理はね、種類が少なくて粗雑な材料を何とかして美味(おい)しく食べようとして、ソースやグレイヴィーに凝ったりして、詰まり、悪い材料を何とかしようという理ばかりが発達したものだと思います。日本料理はその反対で、國が小さい関係で、何處(どこ)ででも新しい材料が手に入り易く、そんな関係で、新鮮な材料の美味しさに負(お)んぶしてしまうために、それをもっと美味しく食べようという理が発達せず、詰まり、材料の料だけのように思えるのです。日本料理は料だけ、西洋料理は理だけで、両方とも片輪です。それに較べて中國料理は、材料の豊富さと良さに加えて、それをより美味しく食べるための理論も備わっている訳ですから、これこそ料理なのですよ。そうお思いになりませんか」  僕はその話を聞きながら、全くだと考えた。(204頁) ◇ 團伊玖磨『パイプのけむり選集 食』小学館文庫(63-64頁)

「どれみそら」への郷愁_阪田寛夫,工藤直子『どれみそら―書いて創って歌って聴いて』河出書房新社

阪田寛夫,工藤直子(聞き手)『どれみそら―書いて創って歌って聴いて』河出書房新社 ◇ はじめに著書のご紹介です。 「『サッちゃん』をはじめ数々の名曲を生み出した著者が、音につつまれ、音楽を朋として歩んだ思い出や心の底を流れるドレミソラの響き、音の記憶を語りそして綴る。」 ● 小さい頃、僕のまわりには「どれみそら」が飛びかっていた ● 「また、小学校に入ってびっくりしたのは「あいうえお」を皆で音読したときです。」 「小学校に入ったら皆もう「あいうえお」を知ってて、五十音図を横にも言えるんです。しかも調子あわせて、みんなが突然(大阪弁で)うたいだした。♪ あ・か・さ・タ・な・ハ・マ・や・ら・わ と。「た」で少し、「はま」でうんと高くなり、「な」と「わ」で下がる。「ドドドレラ.ソソドレラ.」って感じ。ちょっとついていけないなあと、子ども心に思いました(笑)。」 「こんなふうにあえて西洋の音階に翻訳してみると、みんな「ドレミソラ」の中のどれかを使っているんですね。」 「さっきの「あ・か・さ・タ・な…」なんかは、ぜいたくに四つも使っています。」 「子どもたちが遊び歌にフシをつけて歌うと、みんなこの五音(ドレミソラ)におさまります。ファとかシは、子どもの自然なフシまわしの中にはないみたいです。  いわば日本のわらべ歌の基本音というか。(後略)」(八頁-十二頁) ● ドレミソラにファとシが加わると、ちょっと気取る ● 「『かなりや』西条八十作詞・成田為三作曲(「赤い鳥」大正七年十一月)」 「そのあと突然、三拍子に変わって西洋風になります。で、♪月夜の海に浮かべればーァー、この「ァー」が、旋律(ふし)の中で初めて出てくるファの音なんですね。この部分を歌うと、なんか、ちょっとすまして表情まで気取ってくる(笑)。」(八頁-十二頁) ◇ 私にとって、芸術の世界にお住まいの方々のお話は、いつも新鮮な驚きに満ちています。 ◇ 團伊玖磨『パイプのけむり』朝日新聞社 が書きかけのままになっています。申し訳なく思っております。團伊玖磨さんからもたくさんのことを教えていただきました。

茂木健一郎 / 江村哲二『音楽を「考える」』ちくまプリマー新書(全)

茂木健一郎 「すべては音楽から生まれる」   お読みになる際には、下記の順序でお読みください。 ◇  茂木健一郎 / 江村哲二『音楽を「考える」』ちくまプリマー新書 ◇  茂木健一郎 『すべては音楽から生まれる』PHP新書  下記、茂木健一郎 さんと江村哲二(作曲家)さんの対談集『音楽を「考える」』ちくまプリマー新書 の「目 次 ※ Contents」です。 まえがき ーー「聴く」ということ 江村哲二 〈第1楽章〉 音楽を「聴く」 世界には掛け値なしの芸術作品が存在している モーツァルトが抱えていた「闇」は創造の本質を物語る 世にも美しい音楽と数学の関係 「耳を澄ます」という芸術がある 自分のなかにある音を聴く《4分43秒》という思想 創造するとは、自分自身を切り刻むということ 「聴く」ことが脳に及ばす影響とは? 〈第2楽章〉音楽を「知る」 西洋音楽を考える基本要素 ー 楽譜中心主義 日本人としてのオリジナリティ 「頭の中で鳴る音楽」は自分だけのものか? 「作曲は自分の音を聴くこと』ー ジョン・ケージの問題提起 〈第3楽章〉 音楽に「出会う」 芸術とポピュリズムの狭間で 現代音楽入門 ー 無調・12音技法はなぜ生まれたか? クラッシックは「ブーム」たりうるか? 世にも不思議な「一回性」という麻薬 名演が生まれるとき、「迷演」となる?! 米国産「ミュージカル」は好きですか? クラッシック音楽の台所事情 〈第4楽章〉音楽を「考える」 クラッシックは日本に浸透するか?「1%」の高い壁 「お子様向けクラシック」を排除しよう! クラッシック音楽の多メディア的展開 「美しさ」の感知は、最初のインプットが肝心 美や真理は批評なくしては生まれない 日本にも辛口批評と野蛮人精神を 音楽の密度と思考の密度はイコールである 人生の転機はホメオスタシスの一部である そして、生命哲学の問いが、音楽と結びつく あとがき ー 音楽の精神からの「誕生」 茂木健一郎 「究極の指揮者はふらない」 江村  音楽の世界なら、バーンスタインが言っているけれども「自分が指揮者になれるか、自分に指揮者の能力があるかどうか、など考えたこともなかった。ただただ音楽が好きで好きで仕方なくて音楽をやっていた」と。実際にウィーン・フィルのコントラバス奏者から聞いたのですが、バーンスタインの振る指揮棒は、...

「追悼 長田弘さん」6/6

 長田弘さんが、2015/05/03 にお亡くなりになられたことを、当日のNHKのニュースで知りました。訃報に接しご冥福をお祈りいたします。 大切な方たちが一人また一人と亡くなられていきます。 大切な方たちとのお別れが続きます。

長田弘「おおきな木」5/6

「おおきな木」 長田弘『深呼吸の必要』晶文社  おおきな木をみると、立ちどまりたくなる。芽ぶきのころのおおきな木の下が、きみは好きだ。目をあげると、日の光が淡い葉の一枚一枚にとびちってひろがって、やがて雫のようにしたたってくるようにおもえる。夏には、おおきな木はおおきな影をつくる。影のなかにはいってみあげると、周囲がふいに、カーンと静まりかえるような気配にとらえられる。  おおきな木の冬もいい。頬は冷たいが、空気は澄んでいる。黙って、みあげる。黒く細い枝々が、懸命になって、空を掴もうとしている。けれども、灰色の空は、ゆっくりと旋るようにうごいている。冷たい風がくるくると、こころのへりをまわって、駆けだしてゆく。おおきな木の下に、何があるだろう。何もないのだ。何もないけれど、木のおおきさとおなじだけの沈黙がある。

長田弘「賀 状」4/6

「賀 状」 長田弘『深呼吸の必要』晶文社  古い鉄橋の架かったおおきな川のそばの中学校で、二人の少年が机をならべて、三年を一緒に過ごした。二人の少年は、英語とバスケットボールをおぼえ、兎の飼育、百葉箱の開けかたを知り、素脚の少女たちをまぶしく眺め、川の光りを額にうけて、全速力で自転車を走らせ、藤棚の下で組みあって喧嘩して、誰もいない体育館に、日の暮れまで立たされた。  二人の少年は、それから二どと会ったことがない。やがて古い鉄橋の架かった川のある街を、きみは南へ、かれは北へと離れて、両手の指を折ってひらいてまた折っても足りない年々が去り、きみたちがたがいに手にしたのは、光陰の矢の数と、おなじ枚数の年賀状だけだ。  元旦の手紙の束に、今年もきみは、笑顔のほかはもうおぼえていない北の友人からの一枚の端書を探す。いつもの乱暴な字で、いつもとおなじ短い言葉。元気か。賀春。

長田弘「読書のための椅子」_ジョージ・ナカシマ「ラウンジ アーム」3/6

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2 読書のための椅子 長田弘『読書からはじまる』日本放送出版協会 どんな椅子で本は読むべきか  読書というのは書を読むこと、本を読むことです。読書に必要なのは、けれども本当は本ではありません。読書のためにいちばん必要なのが何かと言えば、それは椅子です。 (35頁) 本を読むための椅子 椅子が使われるようになる以前は、文机や書見台という読書のための洗練された家具がありましたが、椅子を使う生活が中心になった今も、これが本を読むために最良の椅子だ、これが自分にとっていちばんいい椅子だと言えるような椅子が、わたしたちの日常の光景のなかに普通にあるとは、まだ言えません。 (41頁)    ほとんどの椅子はクッションを必要としますが、わたしが個人的にもっとも好きなのは、北米のコネティカット州でつくられた木の椅子で、木の椅子でもまったくクッションを必要としないよう、たくみに窪みをもたせた椅子で、何時間座っていても疲れません。どんな人も、それがクッションのない椅子であることさえ意識しないのです。いい椅子がどうかというのは、その椅子が長時間座って疲労しない椅子かどうか、です。  ジョージ・ナカシマという世界に知られた椅子つくりのこしらえた、本を読むための椅子があります。むだのない手づくりの木の美しさが息づいているのがナカシマの椅子の特徴ですが、本を読むための椅子というのは、そのじつは片側だけに肘掛けのあるラウンジ・チェアです。印象的なのは、その椅子の腰掛けの板のデザインで、左右に浅く開いた窪みはちょうど本の見開きのように見えることです。  本当は、本を読むための椅子としてつくられた椅子ではないのかもしれませんが、ナカシマのその椅子は、本を読むための椅子という夢を誘う椅子で、わたしはずっと、その椅子は本を読むための椅子としてつくられたと思っていました。本を読むためにつくられた椅子というのが本当にあれば、本との付きあい方は違ってきます。椅子は本来そういう働きをもっている日常具だからです。 (41-42頁) 椅子で人生が変わってくる  本を読むならば、深呼吸するように本は読みたい。そして、本を読んで人生の深呼吸ができるような場所があるとすれば、それはいい椅子の上だということです。そのように、自分のための椅子を見つけることができれば、いい本を読む、あるいは本を読んでいい時間を手に入れることが...

小池民男「座 力」2002/01/01 天声人語_その経緯 2/6

 実は、このブログ(2016/02/20)は今年の元日に書く予定でした。 「座力」で検索すると、幾つかのウェブサイトが見つかりましたが、全文が掲載されたサイトはありませんでした。元旦の天声人語で読んだことははっきり記憶していました。「天声人語 2002.1.6」と記されたサイトがありました。「2002/01/01」 とわかり助かりました。豊橋市中央図書館の司書の方の手を煩わせコーピーを入手しました。  昨夕お問い合わせのメールでお願いしておくと、今日の午前中にはご返信をいただき、うかがった際には、「朝日新聞 縮刷版」「2002/01/01 天声人語」がすぐに閲覧できるように用意されていました。お心づかいに感謝しております。 TWEET「ないよりはあった方が断然マシです(2015/10/24) 」 ◇ 石川セリ「翼 武満徹ポップ・ソングス」DENON  が届きました。本体は誰かの手に渡り、焼かれたCDだけが手元にありました。歌詞と武満徹さんの書かれた文章が読みたくて注文しました。散逸してしまったあれもこれもが、悔やまれてなりません。  インターネット上で見つけた歌詞と武満徹さんが書かれた詞の間には、少なからぬ異同があり訂正しました。今回に限られたことではありませんが、「こんなものでしょ」というのが率直な感想です。が、ないよりはあった方が断然マシです。 「ないよりはあった方が断然マシ」に変わりはないのですが、それにしても異同が多すぎます。引用する際の最低限のルールさえわきまえれば、インターネット上の情報の信憑性は、ずいぶん改善されるような気がしてなりません。しかし、良くも悪しくも玉石混交というのが、インターネットの特徴ということなんでしょう。

小池民男「座 力」 2002/01/01 天声人語 1/6

小池民男「座 力」 2002/01/01 天声人語 いろいろな力があるもので、「座力」というのがあるのを知った。学者や芸術家はたいへんな体力を必要とする。重い本や道具を移動させることのほか、何といっても長時間椅子(いす)に座っている能力が欠かせない。それを「座力」という▼国語辞典には載っていない。日本にはなかった言葉なのだろう。古くからのヘブライ語で「コーアハ・イェシヴァー」というそうだ。(池田裕『旧約聖書の世界』岩波現代文庫)。かの地では、幼いころから聖書の勉強などで「座力」が鍛えられる。ユダヤの人々から優れた学者や芸術家が輩出する一因かもしれない▼詩人の長田弘さんの近著に「読書のための椅子」という章がある(『読書からはじまる』NHK出版)。この読書の達人が「読書のためにいちばん必要なのが何かと言えば、それは椅子です」といって椅子を論じている。「いい椅子を一つ、自分の日常に置くことができれば、何かが違ってきます」▼寝そべって読む癖がついたのはいい椅子に巡り合わなかったせいか。そう思ったりもする。いずれにしても正月というのはこの「座力」を試すいい機会には違いない▼ことしも世界は揺れ動くことだろう。「座視」するに忍びないことも多々起きるだろう。しかし、右往左往はしたくない。こんなときにこそ、「座力」を養っておかねば、と思う▼長田さんの結語を借用すれば、こうだ。「すべて読書からはじまる。本を読むことが、読書なのではありません。自分の心のなかに失いたくない言葉の蓄え場所をつくりだすのが、読書です」 以下、 長田弘「読書のための椅子」_ジョージ・ナカシマ「ラウンジ アーム」 です。

天人 深代惇郎「ざっくばらん」7/7

「旧制三高」 深代惇郎『深代惇郎の天声人語』朝日文庫  京大教授の梅棹忠夫さんが「きらいなもの」を聞かれ、「ざっくばらんが大きらい」と答えているのも面白い。ざっくばらんとは、つまり野蛮なのだろう。(337頁)

天人 深代惇郎「志ん生一代」6/7

「志ん生一代」 深代惇郎『深代惇郎の天声人語』朝日文庫 「エエ、考えるッてぇと、なんでございますな、やっぱり、どうしても、しょうがないもんでしてな、オイ、目のさめるようないい女だよ、まるで空襲警報みたいな女だよ」。  落語の古今亭志ん生が語り出す「まくら」の奔放さは、天下一品だった。意味をなさぬような語り口から、次第にかもし出す味わいは、だれもマネができない。円生が、このライバルを評したそうだ。 「私は志ん生と道場で仕合いをすれば相当に打ちこむことができますが、野天で真剣勝負となると、だいぶ斬られます」(宇野信夫『芸の世界百章』)。端正な芸風をもつ円生が、野天の真剣だとやられそうだといったのは、言う人の眼の立派さにも感心するし、言われた志ん生のうまさもなるほどと思わせる。  彼が住んでいた「なめくじ長屋」の話は有名だが、その体験が、貧乏ばなしを絶品のものにした。塩をふりかけても、五、六寸ぐれえの大なめくじがシッポではじきとばして、神さんのカカトに食いついた、というのは本当の話なのか、どうか。  その志ん生が紫綬褒章をもらったことがある。「シジュホーショーってなんです」と人にきいたら、「世の中のためになった人にくれる勲章だ」というので、びっくり仰天した。「ほかのことならともかく、そんなこと、あたしは身に覚えがねえ」といったので、まるで罪人を捕まえるような話になってしまったという。  脳いっ血で倒れてからは、庭の金魚をみては「丈夫だね。死ぬかと思っても、なかなか死なないね」と、自分を茶化していた。彼の話は、やるたびにちがったものになったが、その逆に、寸分の違いもなくみがき上げた芸を披露したのは、桂文楽だった。二年前、その文楽が死んだときいて、頭からフトンをかぶって泣いた志ん生も、きょうが自分の葬式となった。(48・9・23) (332_333頁)

天人 深代惇郎「ハイボール」5/7

「ハイボール」 深代惇郎『深代惇郎の天声人語』朝日文庫  この夏、中国で日本の「野球チーム」と中国の「棒球隊」が相まみえることになった。彼は「棒球」といい、われは「野球」というが、こうした大衆スポーツを通じ、いっそう理解し合えるのは喜ばしいことだ。  中国の棒球規則の前言に「友好第一、試合第二の精神を貫き、チャンピオン主義に反対せよ」と書かれているのは、いかにも中国らしい。覇権を求めず、覇権を許さず、という原則は、野球にまで及んでいるのだろう。  日本の野球史は百年を超えたが、最初の国際試合は一高対横浜在留アメリカ人だった。無敵を誇る一高チームが、アメリカ側に他流試合を申し込んだが「まあ、やめておきましょう」と相手にしてくれない。  明治二十九年五月、ようやく念願がかなって、横浜公園で対戦となった。結果は二十九対四で一高の大勝となり、日本野球史の輝かしい一ページとなったが、このとき日本側は捕手以外は素手でやったというからすさまじい。  日本でも野球の草創期は、チャンピオン主義の風潮はそれはど強くなかった。体育とか娯楽といった純な気分でやっていた。雨のはげしいときはミノかさをつけたし、頭に白はちまき、腰に越中フンドシ、ワラジばきといったいで立ちで、グランドを走り回った。  ある遊撃手がハカマを着用して出場したとき、礼節を知る選手として相手チームから絶賛されたが、実はゴロを後逸しないためだったという話も残っている。また当時は、ストライクゾーンが三つあった。  目から胸まではハイボール、腰まではフェアボール、ヒザまではローボール。打者は審判に向かい「余はハイボールを欲す」と予告し、そこに球がこなければ「ボール」になった。相手の弱点をねらわず、欲するものをあたえて勝負するのが正々堂々の試合とされたのだろう。  こんどの日中野球では、おたがいバッターボックスで「余は友好を欲す」と注文してほしい。このゾーンに外れた球はすべて「ボール」、ということにしよう。(50・4・21) (25-26頁)

天人 深代惇郎「筋金入り」4/7

「筋金入り」 深代惇郎『深代惇郎の天声人語』朝日文庫  作家ソルジェニーツィン氏は逮捕されたとき、歯ブラシを手に自宅から連行されたという。さすがに収容所生活で鍛えた「筋金入り」を思わせたが、行く先は収容所ではなく西独だった。  彼の逮捕後、夫人の手からただちに声明書が外人記者に渡された。「警察の尋問には絶対に答えない」「自分を抑圧する者のためには、三十分たりとも働かない」。それは火を吐くように激烈な、国家への果たし状である。  今月はじめには「脅迫電話が夜明けから真夜中まで鳴りつづけている」と、外人記者団にもらしていた。二度にわたる当局の召喚を拒否したことにも、覚悟のほどがうかがえた。彼の『収容所列島』(抄訳は『週刊朝日』連載)は、自分の体験と二百二十七人の証言によって暴露されたソ連体制の告発状である。  収容所生活の言語に絶する実相は、執拗(しつよう)で仮借ない筆で描かれている。常時六百万人の政治犯を収容所に押し込めることによって成立した国家権力の、恥ずべき歴史を認めることなしに、ソ連の将来はないというのが、彼のゆるがぬ信念だ。  またその糾弾はスターリンにとどまらず、ソ連で神聖不可侵とされるレーニンにまで及ぶ。彼はこの本で、過去を顧みて「私はどうして黙っていたのだろう。犠牲になる必要はないという理由なら、だれでも十ぐらいはすぐ並べることができるものなのだ」と、苦い悔恨の情を書いている。  戦争中、連行されてモスクワの白ロシア駅を通ったとき、群衆に真相を訴えるチャンスはあった。だがそこで、自分の声を聞くモスクワっ子は二百人だけだと思い返し、「いつの日か二億人の同胞に向かって声をあげるときが来るだろう」という思いをかみしめる。ソルジェニーツィン氏は西独に事実上追放され、愛するロシアの土と同胞から引き裂かれた。この小さな一人の人間を、巨大な国家がついに「処分」することも、収容所に送ることもできなかった事実に、あらためて歴史の歩みを見る。(49・2・14)(342-344頁)

天人 深代惇郎「収容所列島」3/7

「収容所列島」 深代惇郎『深代惇郎の天声人語』朝日文庫  一人の偉大な作家は、一つの強大な政府に匹敵する。ただ一人、ロシアの大地にそびえ立つ作家ソルジェニーツィンの姿に、この言葉が決して形容のアヤでないことを知る。彼は、人間の勇気が何をなし得るかを私たちに教えてくれた。  ソルジェニーツィンが死ぬ覚悟をしていることは疑いない。「私が何者かに殺されたら、秘密警察の手の届かぬ場所で私の作品は公表されるだろう」と公言してきた。秘密警察は躍起になってその原稿をさがし、極秘に保管していたレニングラードの婦人を逮捕した。  彼女は百二十時間、一睡も許されぬ尋問をうけ、ついに保管場所を自白したあと自殺した。この知らせをうけたソルジェニーツィンは、用心のため国外に出した別のコピーによる二十六万語の『収容所列島』を、パリで出版することを承諾した。  それは各国語に訳され、やがてソ連といくつかの国をのぞく世界中の人々に読まれることになるだろう。彼を投獄できるあらゆる理由を持ちながら、秘密警察はまだ手を下せずにいる。成り行き次第では、ソ連の国際的な立場を苦境に陥れるほど、世界の良識の目が彼の一管の筆をじっと見据えているからである。  『収容所列島』は、半世紀にわたるソ連の恐怖体制を克明に描き出したものだ。レーニンは革命第一日に秘密警察をスタートさせ、それは国家存立の基礎となって今日までつづき、犠牲者数はヒトラーの恐怖政治さえ顔色なからしめた、と彼はいう。その実態をこれほど詳細に伝えた記録は他にない、と欧米の専門家もタイコ判を押す。  ソルジェニーツィンはノーベル文学賞に決まったとき、スウェーデンに行かなかった。一度国外に出れば、再び帰れぬ片道切符になることを知り、亡命者より殉教者の道を選んだのであろう。祖国愛と人間の尊厳のためには屈することを知らぬ巨人に、脱帽する。(49・1・14) (338-339頁)

天人 深代惇郎「夕焼け雲」2/7

解説 辰濃和男 深代惇郎『深代惇郎の天声人語』朝日文庫  「深代惇郎と私は、同期だった。  深代は四十六歳で亡くなり、私はいま、深代が書いた『天声人語』のゲラの一ページ一ページを丁寧に読んでいる。まだ若いころの彼の姿をしばらく追って時を過ごすこともあった。  彼が亡くなった直後、ある会合でお会いした作家の有吉佐和子さんは、こういっていた。 『深代さんはものすごく勉強していたわ。もう、オドロキでした』  深代の作品の中で一印象に残るのはどれか、私は「夕焼け雲」(五〇三頁)をあげたい。(後 略)」 (525頁) 深代惇郎「夕焼け雲」 深代惇郎『深代惇郎の天声人語』朝日文庫  夕焼けの美しい季節だ。先日、タクシーの中でふと空を見上げると、すばらしい夕焼けだった。丸の内の高層ビルの間に、夕日が沈もうとしていた。車の走るにつれて、見えたり隠れたりするのがくやしい。斜陽に照らされたとき、運転手の顔が一杯ひっかけたように、ほんのりと赤く染まった。  美しい夕焼け空を見るたびに、ニューヨークを思い出す。イースト川のそばに、墓地があった。ここから川越しに見るマンハッタンの夕焼けは、凄絶といえるほどの美しさだった。摩天楼の向こうに日が沈む。赤、オレンジ、黄色などに染め上げた夕空を背景にして、摩天楼の群れがみるみる黒ずんでいく。  私を取りかこむ墓標がある。それがそのまま、天空に大きな影絵を映し出しているように思えた。ニューヨークは東京と並んで、世界でもっとも醜い大都会だろう。その摩天楼は、毎日のお愛想にいや気がさしている。踊り疲れた踊り子のように、荒れた膚をあらわにしている。だが夕焼けのひとときだけは、ニューヨークにも甘い感傷があった。  もう一つ、夕焼けのことで忘れがたいのは、ドイツの強制収容所生活を体験した心理学者V・フランクルの本『夜と霧』(みすず書房)の一節だ。囚人たちは飢えで死ぬか、ガス室に送られて殺されるという運命を知っていた。だがそうした極限状況の中でも、美しさに感動することを忘れていない。  囚人たちが激しい労働と栄養失調で、収容所の土間に死んだように横たわっている。そのとき、一人の仲間がとび込んできて、きょうの夕焼けのすばらしさをみんなに告げる。これを聞いた囚人たちはよろよろと立ち上がり、外に出る。向こうには「暗く燃え上がる美しい雲」がある。みんなは黙って、ただ空をな...

「天人 深代惇郎」1/7

「天人  深代惇郎」 2015/10/01  昨夜深更 秋の夜長の戯れに「古今亭志ん生 遊戯三昧」のキーワードで、自分のブログを検索してみました。見事 検索エンジンのトップに表示されました。 古今亭志ん生 / 小林秀雄「大自在の域 / 遊戯三昧」(You Tube) (落語や浪曲、講談などの)語りものの世界には天才といわれる人がいますが、お笑いの世界には天才はいません」と西川きよしさんが話されていました。  古今亭志ん生さんの、また小林秀雄さんのあの味わいのある声は天賦のもので、真似しようにも真似できるものではありません。  お二方にあっては、聴衆はいてもいなくても同じようなもので、ひとり遊戯三昧の世界に遊ばれていらっしゃるかのようです。 以下、YouTube へのリンクです。 古今亭志ん生「火焔太鼓」 小林秀雄「現代思想について」  京都・大原にある、「天台声明」で名高い「来迎院」さんをお訪ねしたことがあります。寂光院さんが消失し再建されている時期のことでした。琵琶湖(湖西)から足をのばしました。 朝一番の拝観で、静かなたたずまいの来迎院さんでゆっくりさせていただきました。  その二つ下のサイトが気になりましたので、クリックすると、すてきな文章が待ちうけていました。 ◇  新聞の自由を生きた男 魚住昭の誌上デモ「わき道をゆく」第106回  天声人語を書かれていた深代惇郎さん、といわれても存じ上げないばかりか、名前の読み方さえ調べなければ解らないありさまでした。とにかく、「ふかしろじゅんろう」さんが、「昭和48年9月の『天声人語』」に書かれた古今亭志ん生さんについてのコラムの全文が読みたくて検索すると、何のめぐり合わせか 2015/09/30 に、 ◇ 深代惇郎『深代惇郎の天声人語』朝日文庫 が出版されたばかりでした。この文庫の「内容紹介」には、 「朝日新聞一面のコラム「天声人語」。この欄を1970年代半ばに3年弱執筆、読む者を魅了し続けて新聞史上最高のコラムニストとも評されながら急逝した記者がいた。その名は深代惇郎 ―  彼の天声人語から特によいものを編んだベスト版が新装文庫判で復活。」 と書かれていました。が、なにせ、「ベスト版」ですので、志ん生さんのコラムが載っているかどうかはわかりませんでしたが、早速明日買おうと思いました。そんな...

内田百閒「そりゃ、あんたさん、死にもの狂いですぜ」10/10

10 渾身の力で取り組む 辰濃和男『文章のみがき方』岩波新書(235-239頁)  「文章はいつも、水をかぶって、座りなおしてはじめる覚悟でいたい」 (串田孫一)  この串田の言葉は、一九五二年一月五日の日記のなかに出てきます。  まだ三十代のころの決意です。  亡くなった勝新太郎が中村玉緒とケンカをしたことがあります。玉緒がすごい形相になって摑みかかると、勝は即座にいったそうです。「おい、いまのその顔だ。その顔を忘れるな。いい顔だ」と。玉緒もつられて「はい」といってしまった、という話を聞きましたが、真偽のほどはわかりません。憤怒の形相も芸のこやしにしようというわけで、勝と玉緒の二人ならありえない話ではないと思いました。  不出来な絵ではあるけれど、その絵の対象になったものをことごとく愛している、と歌ったあと、石垣りんはこう書いています。  「不出来な私の過去のように / 下手ですが精一ぱい / 心をこめて描きました」  私はこの、最後の「下手ですが精一ぱい / 心をこめて描きました」というひかえめな表現が好きで、何度も読み返しては、この真摯な詩人が「精一ぱい」という以上、まことに精一ぱいだったのだろうと思い、文字をつらねるとはそういうことなのだと粛然とした気持ちになるのです。「下手ですが精一ぱい、心をこめて書く」。これ以外に修行の道はない、とさえ思うのです。  「内田百閒の信者」だと自称する随筆家、江國滋はこう書いています。  「あの名文をどんなふうにして書くのかと問われて百閒先生いわく。  『そりゃ、あんたさん、死にもの狂いですぜ』」  さらさらと一気に書いたように見える百閒の文章は、「死にもの狂い」の産物だったのです。  川端康成も、読み手がたじろぐような激しい言葉を使っています。  「文章の工夫もまた、作家にとつては、生命を的の『さしちがへ』である。決闘の場ともいへやうか」  川端は、「われわれの言はうとする事が、例へ何であつても、それを現はすためには一つの言葉しかない」というフローベルの言葉を引用し、そのためにも作家は、不断のそして測り知れぬ苦労を積み重ねるほかはないとも書き、文章の工夫は「決闘の場」だという激しい言葉を使っているのです。  いままで、「これ渾身」ということについて書いてきましたが、この言葉は、実は幸田文の文章から選びました。この人の初期の...