隈元忠敬「空外上人七回忌追恩講演 空外上人を偲んで」
昨日の昼過ぎ、
◆ 龍飛水編『廿世紀の法然坊源空 山本空外上人聖跡素描』無二会
を読み終えた。
広島大学名誉教授 文学博士 隈元忠敬「空外上人七回忌追恩講演 空外上人を偲んで」
龍飛水編『廿世紀の法然坊源空 山本空外上人聖跡素描』無二会(141-167頁)
優れて立派な講演だった。この講演に際しての、隈元先生の周到な用意がうかがえる。本講では主に、ご自身の一筋の学究生活における、空外上人との交差が述べられている。「交差」と表現したのは、隈元先生が、空外上人から直接教えを受けられた期間は短く、もっぱら私淑された体の師弟関係だったからである。
「カント以前の哲学はすべてカントに流れ込んでいる。カント以後の哲学はカントから流れ出ている」といわれる、カントの後継者である、「フィヒテの自我の根本について」の「講義録」ともいえる、格調の高い内容であり、興味深かった。
「ヨーロッパ哲学の中でギリギリのところまで「自我」の根底を極めたのがフィヒテである。これが本当にわかるためには無著の『摂大乗論』を読まなければならない」と隈元先生は空外上人にいわれた。『摂大乗論』は大乗仏教の「最後の締めくくり」をなす経典であり、深層意識については、西洋哲学では追いつかない、ということであろう。仏教や漢文に不案内な隈元先生は、経典さがしからはじめられ、『国訳大蔵経』を参考にされながら、「読書百遍 義自ずから見(あらわ)る」ことをたよりに、『摂大乗論』を「丸二年がかりで百回読」まれたが、「その本の約半分に当たる最初の三章がなんとかほのかにわか」った程度だった。これを携えての広島哲学会での発表後には、「もうちょっと読まないといけません」と空外上人は隈元先生にいわれている。空外上人においては、「フィヒテの自我の根本」についての理解がゆきとどいていたことが予想される。後に隈元先生は、空外上人のもとで、文学博士の学位を取得されている。
師は寡黙だった。師の庇護のもとに自立した個性は育たない、とのお考えだったように感じている。
隈元先生は、空外上人への知恩、報恩の気持ちを忘れなかった。空外上人はそれに対して丁寧に応接された。そこには美しい師弟関係がみられた。
「フィヒテは、自我の内面を掘り下げ」、ついには、その「極点において絶対者である神に到達する。」しかしその後には、「キリスト教の神を否定する無神論だ」と反論する者たちとの間に、「歴史上有名な」「『無神論論爭』という激しい争いが起こった。」「宗教局」によりフィヒテは無神論者だ「と判断が降り」、フィヒテはイエナの街を追われた。フィヒテを受け入れてくれる街はなかった。が、「その時の国王ウイルヘルム・フリードリヒ三世」は、「フィヒテの争いはフィヒテと神さまの争いであって、わたしは知らない」といい、「フィヒテはベルリンに住めるようになった。」
「この処置に感激したフィヒテは、一八0七年にナポレオンがドイツに侵入した時に」、ドイツ復興へ向けての命がけの演説、「『ドイツ国民に告ぐ』を十四回にわたって行」っている。「ナポレオンに我々が負けたのは、武力で負けたのではない。ドイツ人の精神が堕落していたのだ。我々の精神の堕落が敗北の原因だ。ドイツの優れた精神文化の伝統を自覚して真の文化国家として立つべきである。自分の言うとおりに行えば、二十五年経てば、国家は見違えるようになる」。
これを機に「早くも一八一0年にはベルリン大学が設立され、その初代学長にフィヒテが選ばれ」ました。こうしてできたベルリン大学は第二次世界大戦の終戦まで世界の大学の中心位置を占めていました。ドイツが負けてからは東ドイツでソ連の占領下になりましたが、今は解放されています」。
空外上人は、西洋ルネサンスの嚆矢となった、クザーヌス(1401-1464)を、「中世最高の哲学者」であると評価されている。
「クザーヌスは、約一千年にわたってローマ法王庁が、社会のすべてにたいして一極集中支配するために構築した中世的価値観を、全面的に転換させて、近世への門を開いたルネサンスの思想的原点をつくったといわれている。彼はヨーロッパの中世において最も偉大な思想家のひとりであり、中世最後の、さらには近世最初の哲学者であった。」(龍飛水「くらしを貫く 法の流れ ー 源流から大河へ」、龍飛水編『廿世紀の法然坊源空 山本空外上人聖跡素描』無二会 28頁)
ペンは剣よりも強し、ということか。ペンが強くありうるのは、ペンの冴えと為政者の度量、寛恕の心如何、そして最後は命がけ、ということになるのだろう。
空外上人は、東京大学(当時の哲学科には西洋哲学の講座しかなかった)で、西洋哲学を専攻し、学位論文『哲学體系構成の二途 ー プローティーノス解釈試論』で、博士号を取得されている。そのような経緯もあり、本書では、西洋哲学が大きな位置を占めている。
西洋哲学の内に身をおいた何日間かであった。興味深く、決して居心地の悪いものではなかった。西洋哲学とは、言葉となによりも論理の整合性の問われる世界であることを知った。しかしそれは、プローティーノスを俟って東洋哲学に近接した。井筒俊彦が取りあげていることからも、それは明らかなことである。空外上人にとっては大きな出会いだった。
空外上人といい、隈元先生といい、学問へのその真摯な姿勢には見習うべきことが多かった。
「真の哲学体系は生活の肉づけを待たなければならない」といわれた、空外上人の言葉が印象に残っている。