小林秀雄「宣長の言霊」

第十二章 言葉について
木田元『なにもかも小林秀雄に教わった』文藝新書

『本居宣長』の「言霊」
 小林秀雄は、最後の大仕事『本居宣長』においては、この「古代の戯れ」を「言霊(ことだま)」と呼んでいる。『本居宣長』は全篇言語論のようなものであるから、どこから採ってもよいのだが、たとえば次のようなくだりをご覧いただきたい。ここでも、宣長の言語感と小林のそれとを区別する必要はあるまい。

 言葉には「言霊」が宿っているという古人の思想の意味するところを、宣長ほど、深く考えた人はいなかった。言葉は言霊という己れ自身の衝動を持ち、世の有様を迎えて、自発的にこれに処している。事物に当たって、己れを験(ため)し、己を鍛えて、生きている。(「全作品」28『本居宣長(下)』所収「本居宣長補記 Ⅱ」、三七一 ー 三七二ページ)

「言霊」というこの言葉は万葉の歌人の使いはじめたものであり、「言霊のさきはふ国」という言い方からも明らかなように「母国の言葉」という意識、これに寄せる鋭敏な愛着や深い信頼から「ほころび出た言葉」だと、小林は言う(「全作品」27『本居宣長(上)』、三00ページ)。この「言霊の営み」、働き方を明らかにすることはできないが、それが和歌の歴史を一貫して規定していると宣長は直観していたにちがいない、と枕をふった上で彼はこう続けている。

 言語は、本質的に或る生きた一定の組織であり、この組織を信じ、組織の網の目と合体して生きる者にとっては、自由と制約との対立などないであろう。この事実を、彼(宣長)は、「いともあやしき言霊のさだまり」と言ったのだ……。(同前(「全作品」、三0一ページ)

 ランボオが「千里眼」によって透視しようとしていたものも、つまり「原始性」であり、「古代の戯れ」であり、言葉そのものの自己分節であり、自己組織化であるものがそのまま存在の自己分節になり自己組織化になるような、そうした「言葉の錬金術」と、宣長のいう「言霊の営み」とを、小林秀雄が重ね合わせて考えようとしていることは明らかであろう。
 私にはこの小林の言語観と、先ほど見たハイデガーのそれとに深く通い合うものがあるように思えてならないのだ。(187-189頁)


 木田元「小林秀雄の言語観」と重複したくだりが多くなったが、小林秀雄のいう「宣長の言霊」について書き留めておきたかったまでのことである。
 また、井筒俊彦が、「存在はコトバである」と措定するに到った証左に思いをいたしたのは同前である。