「北原白秋_言葉の音楽的生動」

身辺が最近とみにやかましく、おもしろくなく、「しん」とした時間に浸りたくて、
◇ 北原白秋「落葉松」_我が「心の幽かなそよぎ」
「春の湿原にスミレをさがしに_スミレはスミレ」
以上のブログに記した二編の白秋の詩を読みました。

北原白秋「薔薇二曲」
『白金之独楽』
   
      一
   薔薇ノ木ニ   
   薔薇ノ花サク。
   ナニゴトノ不思議ナケレド。

      二
   薔薇ノ花。
   ナニゴトノ不思議ナケレド。

   照リ極マレバ木ヨリコボルル。
   光リコボルル。

 
北原白秋「落葉松」
『水墨集』
       一
   からまつの林を過ぎて、
   からまつをしみじみと見き。
   からまつはさびしかりけり。
   たびゆくはさびしかりけり。

       二  
   からまつの林を出でて、
   からまつの林に入りぬ。
   からまつの林に入りて、
   また細く道はつづけり。

       三 
   からまつの林の奥も
   わが通る道はありけり。
   霧雨(きりさめ)のかかる道なり。
   山風のかよふ道なり。

       四 
   からまつの林の道は
   われのみか、ひともかよひぬ。
   ほそぼそと通ふ道なり。
   さびさびといそぐ道なり。

       五
   からまつの林を過ぎて、
   ゆゑしらず歩みひそめつ。
   からまつはさびしかりけり。 
   からまつとささやきにけり。

       六
   からまつの林を出でて、
   浅間嶺(あさまね)にけぶり立つ見つ。   
   浅間嶺(あさまね)にけぶり立つ見つ。
   からまつのまたそのうへに。

       七
   からまつの林の雨は
   さびしけどいよよしづけし。
   かんこ鳥鳴けるのみなる。
   からまつの濡るるのみなる。

       八 
   世の中よ、あはれなりけり。
   常なけどうれしかりけり。
   山川に山がはの音、
   からまつにからまつのかぜ。


≪落葉松≫の初めに、次の文が書かれています。
 落葉松の幽かなる、その風のこまかにさびしく物あはれなる、ただ心より心へと伝ふべし。また知らむ。その風はそのささやきは、また我が心の心のささやきなるを、読者よ、これらは声に出して歌ふべききはのものにあらず、ただ韻(ひびき)を韻とし、匂を匂とせよ。(「小さな資料室_資料298 北原白秋「落葉松」

吉田精一氏の『鑑賞現代詩 I  明治』には、また「ある作曲家に」(『詩と音楽』創刊号、大正11年9月)にも、この七章は私から云へば、象徴風の実に幽かな自然と自分との心状を歌つたつもりです。これは此のままの香を香とし響を響とし、気品を気品として心から心へ伝ふべきものです。何故かなら、それはからまつの細かな葉をわたる冷々とした風のそよぎ、さながらその自分の心の幽かなそよぎでありますから。(後略)「小さな資料室_資料298 北原白秋「落葉松」


 この清らかさはなんだろう。この「韻(ひびき)」は、なにに由来するものか、「ただ韻(ひびき)を韻とし、匂を匂とせよ」,「香を香とし響を響とし、気品を気品として」、いまそのさやけさのなかにいます。

その後書店に向かい、
◇ 今野真二『北原白秋 言葉の魔術師』岩波新書
◇ 上西清 編『北原白秋詩集』新潮文庫
の二冊を買い、マッターホーン(洋菓子店)・本店の喫茶室で長居を決め込みました。

◇ 安藤元雄 編『北原白秋詩集(上)』岩波文庫
は絶版で、
◇ 安藤元雄 編『北原白秋詩集(下)』岩波文庫
は、在庫がなく、Amazon に注文しました。
◇ 上西清 編『北原白秋詩集』新潮文庫
は、青空文庫では味気なく、やむなく買ったものです。わが街の実力です。

緒についたばかりです。
◇ 今野真二『北原白秋 言葉の魔術師』岩波新書
より、以下に一箇所だけ引用しておきます。

「気配」の人白秋
(前略)
高野公彦はさらに白秋の歌に「表出されているのは、物と我との間にある気配であり、存在している物たちがかもし合っている匂いである。無中心の歌と言えば語弊があるが、中心にあるのは物でも我でもない。では何だろう。一言でいえば、歌の中心にあるのは、言葉である。いわば、言葉の音楽的生動を具現するために白秋短歌は創られている」と述べ、斎藤茂吉は「物に執着し我に執着し」「打楽器主体の単純だが響きの強い音楽」をつくり、白秋は「管楽器主体の繊(ほそ)いやわらかい愁いを帯びた音楽」をつくったと述べる。茂吉と白秋とを並べたこの言説はわかりやすいのではないか。(105頁)

言葉の音楽

 「言葉の音楽的生動」は一つ一つの語の発音であり、並べられた語の「リズム」といってもよいだろう。白秋は歌の添削や、唱歌の検証において、使われている語の母音、子音に言及することが多い。それは、自身がそのようなことにつねに留意していたからであろう。白秋にとってまず「作品をかたちづくる語」をどう選び、どう並べるか、が大事だったと思われ、そういう意味合いにおいて、確実に、言語(学)的な「書き手」であった。(後略)(105頁)

 上記に引いた「言説」は、白秋の短歌(「定型の短詩」)について書かれたものですが、自由詩においては、裁量が一任されているだけに、「言葉の音楽的生動」は、それ以上に顕著にみられるように感じています。専門家の考察をありがたく受け止めています。

追伸:
21頁には、大学時代に教えていただいた「歌人の武川(むかわ)忠一」先生のお名前もみえ、懐かしく思いました。小柄な品のいい方でした。「年をとるごとに怒りっぽくなる」といった言葉が思い出されます。当時 宮中歌会始の選者をされていた、と記憶しています。

以下、
◇ 洲之内徹「しんとする」
です。