TWEET「古今和歌集_その普遍的「本質」としての美」

2021/06/14 より、
◇ 高田祐彦訳注『古今和歌集 現代語訳付き』 角川ソフィア文庫
を読みはじめ、昨夜読み終えた。一週間におよんだ読書(和歌)体験だった。異例づくめだった。

以下の文章は、
◇ 井筒俊彦『意識と本質 ー精神的東洋を索めてー』岩波文庫
からの引用である。
「少くとも『古今集』において古典的完成に達したものを和歌の典型的形態として考えるなら。『古今』的和歌の世界は、一切の事物、事象が、それぞれその普遍的「本質」において定着された世界だ。春は春、花は花、恋は恋、というふうに自然界のあらゆる事物、事象から人事百般まで、存在界がくまなく普遍「本質」的に規定され、その上でそれらのものの間に「本質」的聯関の網目構造が立てられる。もし現実の経験で、何かが自らの普遍的「本質」に背くような形で生起したり、またはそれの本来的に所属する「本質」聯間から外れたりすれば、その意外性自体が一つ詩的価値を帯びるほどの強力な規定性で、それはある。」(53-54頁)
 

 これは、例えば、『古今和歌集』が、ただ「日本的美意識の原点(鈴木宏子)」である、と評することとは次元を異にしている。それは、井筒俊彦が名づけた「言語アラヤ識」、ユングのいう「集団的無意識」あるいは「文化的無意識」内の普遍的「本質」としての美の表われであり、一切私たちには触れることのできない生得的な、深層の文化的な美意識である。
 遅きに失したが、これらへの興味から、今回『古今和歌集』を手にした、のはいいが、七転八倒の毎日だった。一週間におよんだ、と書いたが、毎日ほぼ一日中和歌と向き合ってのお粗末な七日間であった。
 各所に、枕詞、序詞、掛詞、縁語、見立て、歌語、歌ことばが配され、三十一字のなかには、幾多の景色が広がっていた。再読を促されているが、眼をつぶり先に進むことにする。

和歌にも少しは慣れ、次回は、
◇ 白洲正子『西行』新潮文庫
◇ 中西進『古代史で楽しむ 万葉集』角川ソフィア文庫
を併読し、そして「三代和歌集」へと歩を進めます。細部にとらわれることなく、通読を心がけます。