TWEET「小林秀雄『本居宣長 (下)』_『再読』の緖に就くための読書だった」

今日の昼過ぎに、
◇ 小林秀雄『本居宣長 (下)』新潮文庫
を読み終えた。今回、「本居宣長補記」(307-368頁)は割愛した。
 読み継いでいくにつれ、不安・焦燥感は薄らぎ、いつしか健康体になった。とはいえ、心もとない読書にかわりはなかった。小林秀雄の文章には、心を許せばたちまち陥穽に陥る、といった体の厳しさがある。
 小林秀雄が、11年半を費やして執筆したことを思えば、初読では、如何ばかりのことも解らないのは当然であり、いま思えば、今回は、「はじめから」という「再読」の緒に就くための読書だったような気がしている。

「彼(本居宣長)にとって、本文の註釈とは、本文をよく知る為の準備としての、分析的知識ではなかった。そのようなものでは決してなかった。先ず本文がそっくり信じられていないところに、どんな註釈も不可能な筈であるという、略言すれば、本文のないところに註釈はないという、極めて単純な、普通の註釈家の眼にはとまらぬ程単純な、事実が持つ奥行とでも呼ぶべきものに、ただそういうものだけに、彼の関心は集中されていた。神代の伝説に見えたるがままを信ずる、その信ずる心が己れを反省する、それがそのまま註釈の形を取る、するとこの註釈が、信ずる心を新たにし、それが、又新しい註釈を生む。彼は、そういう一種無心な反復を、集中された関心のうちにあって行う他、何も願いはしなかった。この、欠けているものは何一つない、充実した実戦のうちに、研究が、おのずから熟するのを待った。そのような、言わば、息を殺して、神の物語に聞入れば足りるとした、宣長の態度からすれば、真淵の仕事には、まるで逆な眼の使い方、様々ないらざる気遣いがあった、とも言えるだろう。」(197-198頁)

 上記は、本書で幾度となく繰り返される、本居宣長の学問に対する、一貫して変わらぬ態度であった。「無心」とは「無私な心」と言い換えることができよう。
 ようやく緒に就いたばかりの読書である。梅雨明け後の夏空の下に身をさらすのは危険である。「ステイホーム」を隠れ蓑にして引きこもり、「はじめから」という読書を、早速はじめることにする。
 外出時には、祖母の遺品の日傘を愛用している。
「女もすなる日傘といふものを、男もしてみむとてするなり」
 常に日影のなかにある。人知らず日陰を歩くことの心地よさを味わっている。