「白洲正子『西行』_はじめから」

今日の昼過ぎ、
◇ 白洲正子『西行』新潮文庫
を読み終えた。

  東(あづま)の方(かた)へ修行(すぎやう)し侍りけるに、富士の山をよめる
 風になびく富士の煙(けぶり)の空に消えて
 ゆくえも知らぬわが思ひかな
(中略)
西行は「富士」の歌を自讃(じさん)歌の第一にあげていたと、慈円の『拾玉集(しゆうぎよくしゆう)』は伝えている。この明澄(めいちよう)でなだらかな調べこそ、西行が一生をかけて到達せんとした境地であり、ここにおいて自然と人生は完全な調和を形づくる。
(中略)
西行が恋に悩み、桜に我を忘れ、己が心を持てあましたのも、今となっては無駄(むだ)なことではなかった。数寄の世界に没入した人は、数寄によって救われることを得たといえるであろう。「これぞわが第一の自讃歌」といったそのほんとうの意味合いは、これぞわが辞世の歌と自分でも思い、人にもそう信じて貰(もら)いたかったのではあるまいか。(268-269頁)

迷うのは誰でもやることだが、ふつうはいいかげんなところで妥協して終るのに、徹底的に迷いぬいたところに西行の特色があるといえよう。(270頁)

「 あづまのかたへ、あひしりたる人のもとへまかりけるに、さやの中山見しことの昔に成たりける、思出られて
 年たけて又越ゆべしと思いきや
 命なりけりさやの中山  」(265頁)

 小夜の中山の歌と、富士の歌は、私にはひとつづきのもののように思われてならない。昼なお暗い険阻な山中で、自分の経て来た長い人生を振返って「命」の尊さと不思議さに目ざめた西行は、広い空のかなたに忽然(こつぜん)と現れた霊峰の姿に、無明(むみょう)の夢を醒(さ)まされるおもいがしたのではないか。そういう時に、この歌は、一瞬にして成った、もはや思い残すことはないと西行は感じたであろう。自讚歌の第一にあげた所以(ゆえん)である。(270-271頁)


白洲正子『西行』は、
 そらになる心は春の霞にて
 世にあらじともおもひ立つかな
の歌からはじまる。
「うわの空なって落着きのない心は、春の霞さながらである」(岩波古典文学体系)(22頁)
 白洲正子の成果は、西行の「空になる心」から、「虚空の如くなる心」に至るまでの心の内の変遷を、常に歌に寄り添う格好で明らめたことにある。
 西行は、大峯修行をし、熊野三山を詣で、空海を遠く仰ぎ、高野山に草庵を結び、生誕の地 讃岐に長逗留した。また、伊勢の「二見の浦」で侘び住まいをし、その後 鎌倉を経て、平泉に向かっている。

  伊勢にまかりたりけるに、大神宮にまゐりて詠みける
 榊葉(さかきば)に心をかけん木綿(ゆう)しでて
 思へば神も仏なりけり

 何事(なにごと)のおはしますをば知らねども
 辱(かたじけな)さの涙こぼるゝ

 西行は宗教についてもまた自由な考えをした。辱く思い、数寄心にかなうことがすべてであった。西行は無碍の世界に遊んだ。
 西行が到達した地平は「真空妙有」であると理解している。