「哲学的信仰」

迷った末に、
◇ 井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』岩波新書
を手に取った。
「序」を読み、そして幾枚もの付箋がはさんである何頁かの文章を読んだ。数日前のことだった。

「要するに、神秘家たちの哲学的立場は、ヤスペルスの表現を使えば一つの「哲学的信仰」(philosophischer Glaube)であります。しかしここまでくれば、どんな哲学もそれぞれの「哲学的信仰」の基礎の上にうち立てられたものといわざるを得ません。」(109頁)

◆ 井筒俊彦『意識と本質』慶應義塾大学出版会
の跋文には、
「一度そっくり己れの身に引き受けて主体化し、その基盤の上に、自分の東洋哲学的視座とでもいうべきものを打ち立てていくこと」(307頁)
との記載がみられるが、「そっくり己れの身に引き受けて主体化」するとは、すなわち井筒俊彦の実存的体験だった。そしてここにいたったとき、「哲学的信仰」という言葉の影は薄くなる。

 信仰を広義にとらえたとき、世に信仰なき者はないといえよう。私は井筒俊彦の解釈する「哲学的信仰」にしたがう。宗教、宗派、学派色からきっぱりと袖を分かった井筒による東洋「哲学的信仰」である。
 幾座もが連なる山脈(やまなみ)を踏破するなかで、井筒俊彦はしだいに透きとおっていった。

 新年度です。読書事始めです。