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9月, 2019の投稿を表示しています

「拝復 P教授様_河上肇『老後無事』」

「羨む人は世になくも、  われはひとりわれを羨む」 河上肇の「老後無事」という題名の詩ですが、所収の詩集を探しています。ご存知ありませんか。 満ち足りた、自足した者の詩(うた)ですね。早速 探してみます。 以下、古書です。お高いですね。 ◇ 『河上肇詩集』筑摩叢書 「青空文庫」にありました。 ◇  河上肇『閉戸閑詠』 「六月十九日」の日付があります。 以下、引用です。副産物です。蛇足です!? 茨木のり子『詩のこころを読む』岩波ジュニア新書 より。 河上肇「老後無事」 たとひ力は乏しくも 出し切ったと思ふこヽろの安けさよ。 捨て果てし身の なほもいのちのあるまヽに、 飢ゑ来ればすなはち食ひ、 渇き来ればすなはち飲み、 疲れ去ればすなはち眠る。 古人いふ無事是れ貴人。 羨む人は世になくも、 われはひとりわれを羨む 岩波ジュニア新書『詩のこころを読む』(茨木のり子著)より  「アンタになんかアタシの気持ちわかんないよ、フン!」 と言われて、ムッとした経験を多くの人が持っていると思う。  私も一度、友達にそれを言ってしまったことがある。もう何年も前のことなのだが、 友達はそれをずっと悲しんでいたけれど、私はそれを口にしたこと自体、忘れていた。 そのことを友達から伝えられてもやっぱり思い出せず、 「そういや、そんなこともあったような気がする。」 と思った。 その頃、いろいろと落ち込んでいたのを表に出さないようにしていたのに、 私の普段の振る舞いを友達に「乱暴である」と指摘されて切なかった。  私と友人では環境が違うので、悩んでみせるのも悪いかと、言いかけた愚痴を途中で止めた。 どうしたのかと聞く友達に、私は、 「あなたにはわからないからいいわ。」 と一言つぶやいた。それが友達の胸には重く沈んだ。  人はそれぞれの社会的背景や家族構成を持っている。 自分にとっては今自分が居る環境が「普通」だから、その感覚で、他人を見ると、奇妙で、納得行かない。  どんな社会にもヒエラルヒー(階級組織)がある。図にすると、それは三角形で、 下の階層ほど人口が多く、頂点はまさしく「点」なのだ。生きていく前提として、 人は先ず不平等に生まれる。世の中に、完全な横並び社会は存在しない。  こういう書き方をすると差別肯定論

TWEET「空高く」

  毎年この頃になると、西陽が強くなったと感じるのは、私の思いすごしなのでしょうか。来春まで、運転中には、偏光グラスが欠かせなくなります。フレームは、祖父の遺品です。  老眼が進行し、レンズの交換を余儀なくされるたびに、いよいよかなと思い、おろおろしています。 追伸:下記、検索結果です。引用(ほぼ改)です。 「冬の西日が眩しいのは?」  空気が澄んでいるからです。秋から冬にかけては、大陸から乾燥した北西の季節風が吹き、かっらと乾き、陽ざしの妨げになるものがありません。  夏には、海上から湿った南東の季節風が吹き、湿気が陽光を少なからずさえぎります。 眼鏡店では、サングラスではなく、偏光グラスを勧められました。

TWEET「対アイルランド戦」

「RUGBY WORLD CUP JAPAN 2019」  執拗に繰り返されたアイルランドの突進を、複数人のタックルで凌いだ日本チームのディフェンスはみごとだった。灯が灯った。決勝戦でのオールブラックスとの対戦を願っている。

TWEET「一竿の夢」

◇ 山本素石『山釣り』ヤマケイ文庫 I 山中漂白 「飢餓のすなどり」 「山野秋邨先生」 「ボヘミアン」 「野宿の弁」 「天狗の神楽」 「ねずてん物語序説 」 Ⅲ 山中異聞 「山小屋の夜語り」 「奥美濃夜話」 「イワナの楽園」 「佐渡の渓流(上)」 「佐渡の溪流(下)」 〈解説〉 熊谷栄三郎「野人の風貌」 を読み頓挫した。 そして、来シーズンの実釣に向け飛び火した。 ◇ 片山悦二『テンカラ釣りがある日突然上手くなる (釣力UP!壁を破る超常識シリーズ)』つり人社 ◇ 石垣尚男『超明快 レベルラインテンカラ』つり人社 ◆『山と釣り  2015 vol.1  いざ、世界で一番美しい源流へ。 特別企画テンカラ釣り入門   』地球丸 ◆『渓流  2015 春 ノベザオだけじゃ、もの足りない。飛び道具の出番・簡素の美学テンカラの底流   』つり人社 一竿に夢を託している。 が、 ◇ 山本素石『山釣り』ヤマケイ文庫 に見切りをつけたという意味では決してない。投げ出すにはもったいない本である。結構な釣行記であり、釣り文学である。気まぐれな、気ままな読書に終始しているだけのことである。

「拝復 P教授様_順風を帆にはらみ」

「投稿記事のタイトルが決定しました。  小林秀雄は『書庫は言葉を捜す場である』と、物書きの舞台裏を告白しています。」 順風を帆にはらみ、いよいよ出帆ですね。 「物書きの舞台裏」は、清潔でいいですね。 FROM HONDA WITH LOVE.

TWEET「一竿の風月」

 山から溪へと目先がかわった。とはいえ、いまだ「山と溪谷」のうちにある。 「源流の漂泊者 瀬畑雄三の源流哲学」 高桑信一『源流テンカラ』山と溪谷社 「沢登りが溪谷を遡って山頂をめざす遊びだとすれば、釣りびとは竿を操って岩魚を求め、魚止を目標とする源流の逍遥である」(225頁) 昨日、 ◇ 山本素石『山釣り』ヤマケイ文庫 ◇  山本素石『新編 溪流物語』ヤマケイ文庫 が届いた。これを逍遥といおうか、埒外といおうか。

遠藤甲太「松濤明の遺書」

遠藤甲太「松濤明の遺書」 松濤明『新編・風雪のビヴァーク』ヤマケイ文庫 (前略)一九四九年一月四日から六日にかけての「手記」。われわれはこの種の文章を、ひとつの文学作品として読むほかないのだけれど、私の知るかぎり松濤の遺書は、自衛隊員・マラソンランナー円谷幸吉の遺書と並んで、最も衝撃的な文学上の奇蹟である。円谷書が自死する哀しみの至純さにおいて言語を絶しているとすれば、松濤書はその対極。あくまで死と闘い、ついに倒れんとする瞬間の圧倒的な臨場感(リアリティ)において、やはり言語を絶している。(後略)(337-338頁) 以下、 松濤明,有元克己「風雪のビヴァーク」 です。

松濤明,有元克己「風雪のビヴァーク」

「壮絶な手記を残して風雪の北鎌尾根に消えた松濤明」 萩原浩司『写真で読む 山の名著 ヤマケイ文庫50選』 ヤマケイ文庫 『風雪のビバーク』は、戦前・戦後にかけて数々の初登攀記録を打ち立て、風雪の北鎌尾根に逝った希代のアルピニスト、松濤明の遺稿集である。松濤は一九四九(昭和二四)年一月に、奇しくも加藤文太郎と同じ風雪の槍ヶ岳北鎌尾根で遭難するが、遺体のかたわらで発見された手帳の壮絶な手記が耳目を集めた。そこには遭難に至った経緯が細かに記され、最後には岳友と共に死を受け入れてゆく過程と心情が描かれていた。(34頁) 「風雪のビヴァーク」 松濤明『新編・風雪のビヴァーク』ヤマケイ文庫 1月6日 フーセツ  全身硬ッテカナシ、何トカ湯俣迄ト思フモ有元ヲ捨テルニシノビズ、死ヲ決ス  オカアサン  アナタノヤサシサニ タダカンシャ. 一アシ先ニオトウサンノ所ヘ行キマス。  何ノコーヨウモ出来ズ死ヌツミヲオユルシ下サイ.  ツヨク生キテ下サイ.  井上サンナドニイロイロ相談シテ    (二頁空白)  井上サン  イロイロアリガタウゴザイマシタ  カゾク ノコトマタオネガヒ.  手ノユビトーショウデ思フコトノ千分ノ一モカケズ モーシワケナシ、  ハハ、オトートヲタノミマス  有元ト死ヲ決シタノガ 6・00  今 14・00    仲々死ネナイ  漸ク腰迄硬直ガキタ、  全シンフルヘ、有元モ HERZ、ソロソロクルシ. ヒグレト共ニ凡テオハラン.  ユタカ、ヤスシ、タカヲヨ スマヌ、ユルセ、ツヨクコーヨウタノム.    (十四頁空白)  サイゴマデ タゝカフモイノチ、友ノ辺ニ スツルモイノチ、共ニユク.(松ナミ)  父上、母上、私ハ不孝でした、おゆるし下さい  治泰兄、共栄君 私の分まで 幸福にお過し下さい  実態調査室諸士、私のわがまゝを今までおゆるし下さいましてありがとうございました  井上さん おせわになりま(六頁空白)した  荒川さん シュラフお返しできず すみません   有元   我々ガ死ンデ 死ガイハ水ニトケ、ヤガテ海ニ入リ、魚ヲ肥ヤシ、又人ノ身体ヲ作ル  個人ハカリノ姿 グルグルマワル   松ナミ    (十二頁空白)  竹越サン 御友情ヲカンシャ.  川上君 アリガトウ 

TWEET「事に始めがあるならば」

今日発売の雑誌、 ◇『山と溪谷 2019 No.1014 10』山と溪谷社 を買った。 「第2特集 書店員がおすすめする『山の本』」 の特集記事が目当てだった。そして、すすめられるままに、 ◇ 空木哲生 『山を渡る -  三多摩大岳部録 - 1』KADOKAWA を求めた。禁断のコミックスに手を出した。 先月は、 「特集 紙地図と電子地図」 に魅かれ、また来月号の特集記事、 「大特集 富士山」 に意欲満々である。「富士山」,「大特集」とあれば 、読まなければ沽券に関わると大仰なことを考えている。  思えば、 2019/07/14 に、「モンベル 豊橋店」さんの書籍コーナーで、「ヤマケイ文庫」を知ったのがはじまりだった。異色の読書体験をしている。事に始めがあるならば、事なきを得ることも、事切れることもあるだろう、と達観している。

田部重治「静観的登山」

「山と溪谷 田辺重治選集」 萩原浩司『写真で読む 山の名著 ヤマケイ文庫50選』 ヤマケイ文庫 「山は如何に私に影響しつつあるか」は、一九一九(大正八)年、田部重治が慶應義塾山岳会の第五回大会に招かれたときの講演をまとめたものである。慶應義塾の会報『登高行』に講演の内容が掲載されたのち、第一書房版『山と溪谷』に収録するにあたって文章体にあらためられた。講演のなかで、田辺は自分の山に対する感情が、三つの段階に変化してきたことを述べている。 第一は山をあこがれながら山に恐怖を感じた時、第二は山が自己であり自己が山であ ると感じて、その自己というものの考え方がごく狭い小さな自己を意味していた時、 第三には自己は狭い自己を超越した自己であるということを考えるようになった時で ある。」(78頁)  そして、次頁には、「静観的登山」の言葉がある。  田部重治のいう「自己」は、いずれの地平へと広がり、いずこへ収束するかは、選集である 『写真で読む 山の名著 ヤマケイ文庫50選』では推しはかるべくもなく、 ◇ 田部重治『 山と溪谷 田辺重治選集」 ヤマケイ文庫 に直接当たろうと、注文してはみたものの、年半ばにしての講演であり、はなはだ心もとなく思っている。

「Apple Special Event_Autumn of 2019」

    「Apple Special Event」が、日本時間 2019/09/11 午前2時から開催されます。後一時間後に迫りました。秒読み段階です。     これといってお目当の品があるわけではありませんが、やはり Apple の動向は気になります。

「井筒俊彦_いまなぜ岩波文庫なのか」

 今年に入って、岩波文庫から、井筒俊彦の著作が続けて刊行されていることを、昨日知った。  私の手元にある何冊かの、 『井筒俊彦全集』慶應義塾大学出版会   と重複している著作ばかりで、不思議に思っている。 「いまなぜ岩波文庫なのか」。  出版社(書店)の見識、出版人としての矜持ということを思った。 ときに無欲という欲も無心という心さえ障りのある世界の出来事、といえばほめ過ぎか。 2019/02/15 ◇ 井筒俊彦『神秘哲学』岩波文庫(2019/02/15) 東洋思想の概念・枠組を大きく変え,日本,世界の思想界に反響を起した井筒俊彦(1914─93)の初期の代表作である.ソクラテス以前の哲人達から,プラトン,アリストテレス,プロティノスへと続くギリシアの精神史を,人知を超えた絶対的真理「自然神秘主義」の展開として捉える.ギリシアを通して東洋思想の深層に踏み込む. 2019/03/15 ◇  井筒俊彦『意味の深みへ』岩波文庫 「精神的東洋」をありかを求めて,仏教唯識論,空海密教,老荘思想,イスラーム神秘主義,現代思想のデリダ,ソシュールを自在に論じた著作.著者は,意識の深層領域に拡がる意識,言語の発生源となる場を「コトバ」を名づける.「コトバ」を基軸とする思惟が東洋思想の本質であることが,次々に解明される.井筒に応答したデリダの小論文(丸山圭三郎訳)を併載. 2019/5/17(予約受付中) ◇  井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス:東洋哲学のために』岩波文庫(2019/5/17) 東洋思想の諸伝統に共通する根源的思惟の元型を探り, 東洋哲学の可能性を探求する. イスラーム, 禅仏教, 老荘思想, 華厳経を時間論, 存在論, 意識論として読み解く. 末尾に司馬遼太郎との生前最後の対談を併載. 岩波文庫の行方に、注目している。

TWEET「今夜夜半過ぎ」

    今夜夜半過ぎ、台風15号が直撃の予報ですね。都でのはじめて、ですね。台風の脅威から免れるには、台風と慣れ合うことです。風速27m の風になって、天翔けてください。      GORE-TEX のレインウェアの真価を試す好機でもありますね。 何事もなく、生還されることをお祈りしております。 FROM HONDA WITH LOVE.

「拝復 P教授様_わが町の哲人」

 一息つかれたようですね。どうもお疲れさまでした。  夏期講習にかこつけて、すべてにおいて激ヤセ状態です。天賦の才云々以前の深刻さです。  三日前、 松岡英夫『岩瀬忠震―日本を開国させた外交家』中公新書 『開国の立役者 岩瀬忠震』『 開国の立役者-岩瀬忠震』編纂委員会 の二冊 を、わが町の哲人からお借りして読みました。岩瀬忠震(ただなり)は郷土の人です。 「幕末の外交官である岩瀬の交渉の相手となったアメリカの外交官ハリスは後に 『当時井上、岩瀬の諸全権は綿密に逐条の是非を論究して余を閉口せしめることありき。(中略)懸かる全権を得たりしは日本の幸福なりき。彼の全権等は日本の為に偉功ある人々なりき』と語っています。」  哲人は、通りに面した廊下のソファーで、日がな一日読書に耽っています。犬とヤギ それぞれ一頭を屋内で放し飼いにしています。新書は所々ヤギに食されていました。先代のヤギは盗まれ、外国人に食べられた、と言っています。 当地では残暑が厳しく、引きこもっています。 時節柄くれぐれもご自愛ください。 FROM HONDA WITH LOVE.

山村修『増補 遅読のすすめ』_鑑賞の指南書

山村修『増補 遅読のすすめ』ちくま文庫  先日、漱石の『吾輩は猫である』を読んでいると、ほとんどラストに近いあたりで、次の一行が目にふれた。 呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。 この小説を読むのは三度目である。一度目は高校生のころ、二度目は二年ほどまえのこと。一度目の高校時代ははるかな昔のことで、みごとなくらい内容の記憶は失われているから除外するとして、二度目に読んだとき、この一行には気がつかなかった。 (中略) 前回は気がつかなかった。そのときはたぶん、右の痛切ともいえる一行は目をかすめただけである。読んで感銘を受けたけれども忘れてしまったというのではない。目には映っているが印象をとどめない。なぜだろうか。答えはきまっている。速く読んだからだ。 本書では、山村修さんが遅読中にも、さらにゆっくり読んでいるところ、立ち止まり、行きつもどりつしつつ、感慨にふけっている場面が、山村修さんの鑑賞文とともにふんだんに紹介されています。読書家 山村修の面目を再認識させられます。 本書は「遅読のすすめ」であって、恰好の「図書案内」であって、「鑑賞の指南書」であって、私にとっては「作文のお手本」であって、「作文の作法」です。 引き続きまして、遅読を実践します。

「拝復 P教授様_我が儘がいい」

 「文章の執筆・推敲の時間を確保するために、物書きには我が儘が保障されなければならない。  さらに川端は、借金を踏み倒す我が儘を通し、偉大な作品を残した。」 わがままがいい。わがままでいい。 さすがに川端康成はただ者ではありませんね。超越していますね。 お便り、どうもありがとうございました。 残暑厳しき折、くれぐれもご自愛ください。 FROM HONDA WITH LOVE.

須賀敦子「遠い霧の匂い」(全)

狐『水曜日は狐の書評 日刊ゲンダイ匿名コラム』ちくま文庫 「いきなり現れ、去った文学者の残したもの」(104-105頁) 須賀敦子『須賀敦子全集 第1巻』河出文庫 十年前の一九九0年、須賀敦子という聞き覚えのない著者が出したエッセー集『ミラノ 霧の風景』(白水社)を読んだ者は、だれもが目をみはらされた。どうやら処女出版らしい。しかしすでに作家の確信ともいうべき力が文章の内にこもっている。イタリアという異邦の風土をめぐる思いが、書き手の内部ですっかり熟成しているのを感じさせられる。つまり私たちの前に、いきなり文学者が現れたのだった。 そうした日常の局面を、須賀敦子はおどろくべき多彩さでエッセーに書いた。そのエッセーの魅力を知るのに恰好の一文といえるのが、本書所収「ミラノ 霧の風景」の冒頭に置かれた「遠い霧の匂い」だろう。このたった六ページの短文には、霧という自然現象をモチーフに、異郷ミラノの土地の感触が、そしてそこに生きることの哀切、痛み、喜び、希望などが、しんしんと身にしみるように書かれている。その後の須賀敦子のおそらくすべてがこの六ページに凝縮されているといっていい。神品。何度読んでもすばらしい。  明日には、 須賀敦子『ミラノ 霧の風景』白水社  が届くと思われ ますが、待ちきれずに、図書館へ「遠い霧の匂い」をコピーしに行こうと思っています。図書館にあることは確認しました。9:30 開館です。朝一番に 行こうと考えています。  朝一番で行ってきました。会社勤めの人たちが出社するかのように、「ぞろぞろぞろぞろ」と皆足早に朝一番の図書館に入っていきました。静かな朝を想像していましたので、呆気にとられました。コピーはやめて、 須賀敦子『須賀敦子全集 第1巻』河出書房新社   を借りてきました。帰路、デニーズさんに立ち寄り読みました。「狐」さんが「神品」とまで賞賛した作品を、なぜいままで読まないままにやり過ごしてきたのか、不思議な気がしています。感想は項を改めて書きます。 須賀敦子「遠い霧の匂い」(全文) つい今しがた読み終えました。三度目です。前回読んだのはちょうど一月前のことでした。回を重ね、作品の味わいが少しずつわかるようになってきました。「狐」さんが評した「神品」へのとらわれから、解き放たれたこともその