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『徒然草』_「第二二0段 何事も、辺土は賤しく」

TWEET「『徒然草』_原文の姿を知らず」 2021/06/05 ◇ 兼好法師,小川剛生訳注『新版 徒然草 現代語訳付き』 角川ソフィア文庫 を現代語訳で読んだ。原文の味わいを知らず、素っ気ない読書に終始した。 「 第二一九段 四条の黄門」, 「第二二0段 何事も辺土は」の二編は 特に面白かった。いずれも楽器の音についての話題である。 「第二二0段  何事も、辺土は賤 しく」 島内裕子校訂訳『兼好 徒然草』ちくま学芸文庫 「何事も、辺土は賤(いや) しく、頑な(かたく)ななれども、天王寺の舞楽のみ、都に恥ぢず」と言へば、天王寺の 伶人 の申し侍りしは、「当寺の楽(がく)は、良く 図 を調べ合はせて、物の音のめでたく調(ととの)ほり侍る事、外よりも勝(すぐ)れたり。故は、太子の御時(おんとき)の図、今に侍るを博士とす。所謂(いはゆる)、六時堂(ろくじどう )の前の鐘なり。その声、 黄鐘調 (わうしきでう)の最中(もなか)なり。寒・暑に従ひて、上がり下がり有るべき故に、二月、涅槃会より聖霊会(しょうりょうえ)までの中間を、指南とす。秘蔵の事なり。この一調子を以(もち)て、いづれの声をも、調(ととの)へ侍るなり」と申しき。   凡(およ)そ、鐘の声は、黄鐘調なるべし。これ、無常の調子、祇園精舎の無常院の声なり。西園寺の鐘、黄鐘調に鋳らるべしとて、数多度(あまたたび)鋳替へられけれども、叶はざりけるを、遠国(をんごく)より尋ね出だされけり。浄金剛院(じやうこんがうゐん)の鐘の声、また黄鐘調なり。 ◇ 伶人:楽人。 ◇ 図:図竹。調子笛のこと。 ◇ 黄鐘調:おうしきじょう。 「寒・暑に従ひて、上がり下がり有るべき故に」「 お釈迦様の入滅された二月十五日の 涅槃会から、 聖徳太子の命日である二月二十二日の聖霊会 までの期間の鐘の音を、基準としているのです」。  鋭敏な耳の持ち主を以って “ 伶人 ” というのか 、この兼好法師との分り合いの世界は、すてきである。 「祇園精舎の鐘の声」は 黄鐘調の音(ね)であり、 黄鐘調の音であってこそ、「諸行無常」と響くことを知った。 土門拳『古寺を訪ねて 斑鳩から奈良へ』小学館文庫 「法隆寺と斑鳩」 金堂にせよ、五重塔にせよ、 振り仰いだときの厳粛な感銘は格別である。 古寺はいくらあっても、 その厳粛さは法隆寺以外には求めら...

「いまなぜ洲之内徹なのか」

「いまなぜ洲之内徹なのか」  下記の白洲正子の文章が発端となった。 「さらば『気まぐれ美術館』洲之内徹」 白洲正子『遊鬼』新潮文庫 「小林(秀雄)さんが洲之内さんを評して、「今一番の評論家だ」といったことは、週刊誌にまで書かれて有名になったが、 (中略)  だが、小林さんの言葉は私がこの耳で聞いたから確かなことなので、一度ならず何度もいい、その度に「会ったことないの?」と問われた。  変な言いかただが、小林さんは「批評」というものにあきあきしており、作者の人生と直結したものでなくては文学と認めてはいなかったのである。小林さんだけでなく、青山二郎さんも、「芸術新潮では洲之内しか読まない」と公言していた」(220-221頁) 「自転車について」 洲之内徹『帰りたい風景 気まぐれ美術館』新潮社  「松田(正平)さんのアトリエは汚いが、汚ならしくはない。そういう汚ならしいもの、他人を意識したものが一切ない」(286頁)  洲之内徹は、「汚ならしいもの」,「他人を意識したもの」を徹底して遠ざけた、清廉の人であった。洲之内の文章には温もりがあり、一流のユーモアがある。  荷風の『断腸亭日乗』といい、洲之内の『気まぐれ美術館』といい、文体らしき骨子をもたない文章に出会った意義は大きい。  なお、タイトルは、白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』から拝借した。 白洲正子『名人は危うきに遊ぶ』新潮社  その翌年の夏、荒川(豊藏、陶芸家)さんは亡くなられた。最後のころは寝たきりであったと聞くが、それにつけてもあの時お目にかかっておいてよかったと思う。おいとまする時、荒川さんは長い間私の手を握っていて、お互いに無言で「お別れ」をしたが、死を覚悟した人との決別は、悲しいけれどもどことなく爽やかな印象を与えた。一生土を練って練りあげた骨太の手は暖かく、今でもその感触は私の掌に残っている。  同じ年の秋には、私の夫も死んだ。つづいて加藤唐九郎さんも亡くなった。あの時いっしょに訪問した美術評論家の洲之内徹さんも、つい先逹て急逝された。そうしてみんな私の周囲から姿を消して行く。いずれは私もお仲間入りをするだろうが、せめて生きている間は、生きなくてはと思う。荒川さんが示して下さったように、短い生をたのしまずば如何せんと思うこと切である。(136-137頁)

洲之内徹「夫婦喧嘩ですか」

「秋田義一ともう一人」 洲之内徹『人魚を見た人 気まぐれ美術館』新潮社 「これが年を取ったということかもしれないが、この頃、私は、物を考えるということをあまりしない。何か感じても感じっぱなしで、それを考えて行くということをしないのだ。 (中略)  そのゴッホの二枚目の絵の前に立ったとき、突然、私は、 「ただ絵を売るためだけなら、何も、こんないい絵を描くことはないんだよなあ」  と、思わず口の裡で呟いてしまった。そして、この、全く以ってお粗末至極な感想に呆れて笑ってしまったが、しかし、すぐに、待てよ、これはだいじなテーマかもしれないぞ、よく考えてみなきゃあ、と思った。  思ったが、それから半年以上たっても、私はそのことで何も考えていない」(295頁) 「これが靉光か!」 洲之内徹,関川夏央,丹尾安典.大倉宏 ほか『洲之内徹 絵のある一生』(とんぼの本)新潮社   「靉光(あいみつ)はかつてルオーの絵を見て、「やっちょるのお、手を抜いちょらんわい」と感心していたという。洲之内は、そんな靉光のひたむさが好きだったのだ」(88頁) 「靉光の死を見届けた人」  洲之内徹『気まぐれ美術館』新潮社  「とりとめもない話をする。靉光のことになると、きえさんはいつものように、自分は靉光の女房にはちがいないが、結婚生活といっても十年ほどだし、それに自分は毎日勤めに出、靉光は靉光で、二階の画室には人を寄せつけず、ときにはひと月もふた月もそこへ籠りきりで、だから、そんなときは顔を合わせることもあまりない、そういう具合ですからねと言い、たまに二階から降りてきたと思うと、何も言わずにあたしの頭をはたいておいて、また上って行ってしまったりするんですよ、と笑っている。  「夫婦喧嘩ですか」  「そうじゃないんですよ、仕事の緊張が続いて自分で耐えられなくなると、そうやって気を晴らすんでしょう」  黙って殴られている靉光夫人の姿に、私は感動した。なんという素敵な夫婦だろう」(150頁)

洲之内徹「絵が絵であるとき」

  「男が階段を下るとき」 洲之内徹『人魚を見た人 気まぐれ美術館』新潮社 「批評や鑑賞のために絵があるのではない。絵があって、言う言葉もなく見入っているときに絵は絵なのだ。何か気の利いたひと言も言わなければならないものと考えて絵を見る、そういう現代の習性は不幸だ」(166頁) 「今年の秋」 洲之内徹『人魚を見た人 気まぐれ美術館』新潮社 「汗をかきながら興奮して撮影を続けていたMさんは、終ると、その間傍でただ呆んやり煙草をのんで眺めていた私に、 『取材はもういいんですか』 と、けげんそうに言った。そのとおりで、取材なんて面倒なことは、私は全然する気にならないのであった。美しいものがそこにあるという、ただそれだけでよかった」(90頁) 「秋田義一ともう一人」 洲之内徹『人魚を見た人 気まぐれ美術館』新潮社 「最近では、九月に、旅行の帰途ふとその気になって倉敷へ寄ったとき、時間がなくて大原美術館だけ、それも本館と新館とを三十分ずつ駈足で見て廻ったが、こういう見方にも思い掛けぬ面白さがあって、特に日本人の画家のものを並べた新館では、その一人一人の画家について従来いろいろと語られている美術史家や批評家の言葉を超えたその向こうに、その画家の存在はあるのだということを、なぜかしらないが、私は強く感じた。 (中略)  私は更に、日本人の油絵は、岸田劉生だろうと萬鉄五郎だろうと小出楢重だろうと安井曾太郎だろうと川口軌外だろうと鳥海青児だろうと松本竣介だろうとその他誰であろうと、みんな共通して、われわれ日本人のある切なさのようなもの、悲しみのようなものを底に持っている、と思った」(296頁)

小林秀雄「絵を見るとは、一種の退屈に堪える練習である」

小林秀雄「偶像崇拝」 小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫 「偶像崇拝」は、実に多くの話題から成っている。絵画に題材をとり、惜しげもなく展覧された作品群は、どれ一つとってみても秀逸で、瞠目するばかりである。 「絵を見るとは一種の練習である。練習するかしないかが問題だ。私も現代人であるから敢えて言うが、絵を見るとは、解っても解らなくても一向平気な一種の退屈に堪える練習である。練習して勝負に勝つのでもなければ、快楽を得るのでもない。理解する事とは全く別種な認識を得る練習だ。現代日本という文化国家は、文化を談じ乍(なが)ら、こういう寡黙(かもく)な認識を全く侮蔑(ぶべつ)している。そしてそれに気附いていない。」(218頁)  けっして他人事(ひとごと)ではなく、小林秀雄の達観である。達見である。

小林秀雄「梅原さんの言葉は絵なんだ」

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「北京の空は裂けたか 梅原龍三郎」 白洲正子『遊鬼 わが師 わが友』新潮文庫 「それについて思い出すのは、四月に出版された「新潮」の「小林秀雄追悼記念号」に、吉井画廊の吉井長三さんが書いている話である」。  ーーある日、吉井さんが、梅原さんのお宅へ行くと、先生はこんなことをいわれた。 「今朝起きたら、バラの花がとても美しかった。それで、十五号のカンバスにさらっと描いてみたが、一寸(ちょっと)いいのが出来た。絵具がまだぬれてるので、そこに裏返しにして立て懸けてあるから、よかったら見給(たま)え」  そこで吉井さんは探してみたが、そんな絵はどこにもない。先生は勘違いをされていたのである。その話を小林さんにすると、吉井さんは叱(しか)られた。 「絵は、実際には描いてなかったって? だから何なのだ。勘違いが、おかしいか。…お前はな、それは、大変なことを聞いているんだぞ。判(わか)るか。梅原さんは、行住座臥(ざが)、描いているんだ。筆を持たなくたっても、描いているんだ。常に描いているから勘違いもする。…だいたい、梅原さんの言葉は、もう言葉でない。絵なんだ。言葉が絵なんだ」から、君は大事に聞いて、記録しておけ、といわれたそうである。  小林さんが昂奮(こうふん)している様子が目に見えるようだが、私もこの文章を読んだ時は感動した。それはまだ小林さんが元気な時の話で、たぶん二、三年前の出来事であろう。(187-188頁) いま本箱に 2冊の、 『新潮 臨時増刊  小林秀雄追悼記念号  昭和五十八年四月』 が並んでいる。いずれも古書で購入した、だいぶくたびれた雑誌である。  目下 積読中である。

「小林秀雄、梅原龍三郎とピカソの腕力を語る」

「梅原龍三郎 美術を語る」 『直観を磨くもの ー 小林秀雄対談集 ー』新潮文庫(321-325頁) 小林 ぼくはピカソという人は、だいたい文学的な人だと思うんですがね、初めからの画を見ると。 梅原 そう。初めごろの画は、文学的というか…。 小林 一種センチメンタルなものがあるでしょう。一種の妙な、浪漫派文学みたいなものがね。 梅原 やっぱりスペイン人の血っていうものが、ハッキリとあるんじゃないかと思うんだけどね。(後略) 小林 ぼくはピカソのああいうセンチメンタルな、浪漫派文学みたいな、若いころのものは、あの人が何をやろうが、決して消えていないと思うんですよ。 (中略) 小林 ピカソという人は、もっと眼が悪いとか手が悪いとかなら別だけれども、手と眼がたいへんな技巧だもんだから、あれだけやれるんじゃないかな。 梅原 とにかく何をやっても人をひきつける力があるんだから、やはり腕力の物凄(ものすご)いやつだと思うな。(笑う) (中略) 梅原 デッサン力は非常に強くてね、デッサンがうまいのは、近世で一番て言っちゃヘンだけど、現代で一番うまいと思うな。 小林 あたしもそんなふうな気がする。実にうまい。 梅原 写実的なものを描くと、そのうまさがハッキリするな。ずいぶんヘンテコなものを描いてもうまいんだしね。その点、あれは恐ろしいやつだと思うな。 小林 魔法使いみたいな腕ですな。あの腕は確かに純粋に画書きの腕で…。何んでも出来るから何んでもやっちゃった、ということでしょうね、あの人はそういう腕があるから画書きとしているんでね。案外、ぼくは詰らん男みたいな気がするんです。そういうふうにぼくは考えるんですがね、どうも言葉が足りない。 梅原 いや、ぼくにはその気持ちは判るな。 (中略) 梅原 みんなと同じようなことをやってるのは面白くない、というようなことを、若いころから言っていて、それがね、あいつ、腕力が強いから、余裕をもって何んでもやれるんでね。 小林 そういう所は偉いな。あの線というのは、ぼくは偉いものだと思う。ほんとに、物を見たまま手が動いちゃうようなものですな。 梅原 そういうものだ。 小林 眼と同じような早さで動いてるような線ですな、あの線は。 梅原 一代の化けものみたいなやつだと思うけどね、あれは。 小林 ぼくはある人のピカソに関する本を読んでいたら、若いころにいろいろデ...

小林秀雄「鉄斎,光悦,雪舟を書く」

小林秀雄「鉄斎の自在」 小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫 「鉄 斎 II」 「志などから嘗(かつ)て何かが生れた例(ため)しはない」(173頁)「絵かきとして名声を得た後も、鉄斎は、自分は儒者だ、絵かきではない、と始終言っていたそうだが、そんな言葉では、一体何が言いたかったのやら、解らない。絵かきでないといくら言っても、本当に言いたかった事は絵にしか現れなかった人なのだから、絵の方を見た方がはっきりするのである」(175-176頁) 「鉄斎は画家を信じなかったが、画家の方で鉄斎を信じた」(178頁) 「鉄 斎 III」 「鉄斎の筆は、絵でも字でも晩年になると非常な自在を得て来るのだが、この自在を得た筆法と、ただのでたらめとの筆とが、迂闊(うかつ)な眼には、まぎれ易いというところが、贋物(にせもの)制作者の狙いであろう。例えば、線だけをとってみても、正確な、力強い、或(あるい)は生き生きとした線というような尋常な言葉では到底間に合わない様な線になって来るので、いつか中川一政氏とその事を話していたら、もうこうなると化けているから、と氏は言っていた。まあ、そんな感じのものになって来るのである。岩とか樹木とか流木とかを現そうと動いている線が、いつの間にか化けて、何物も現さない。特定の物象とは何んの関係もない線となり、絵全体の遠近感とか量感とかを組織する上では不可欠な力学的な線となっているという風だ。これは殆(ほとん)ど本能的な筆の動きで行われている様に思われる。最晩年の紙本(しほん)に描かれた山水(さんすい)などに、無論線だけには限らないが、そういう言わば抽象的なタッチによって、名伏し難い造型感が現れているものが多い」(180-181頁) 「(八十歳の半ば頃を過ぎると)鉄斎の絵は、どんなに濃い色彩のものでも、色感は透明である。この頃を過ぎると、潑墨(はつぼく)は次第に淡くなり、そこへ、大和絵(やまとえ)の顔料(がんりょう)で、群青(ぐんじょう)や緑青(ろくしょう)や朱が大胆に使われて、夢の様に美しい。ああいう夢が実現出来る為には、自然を見てみて、それがいったん忘れられ、胸中に貯えられて了わなければならないであろう」(182頁)  我知らず、鉄斎は、思想を絵にする他なかった。鉄斎の絵に仮託し、小林秀雄が語るのは、宗(おおもと)の教えである。晩年の無頓着で、無造...

岡 潔「信解・情解・知解」

山本健吉 岡潔「連句芸術」  岡潔『岡潔対談集_司馬遼太郎,井上靖,時実利彦,山本健吉』朝日文庫 山本  先生にとっては、数学と道元・芭蕉というのは一つのものなんですね。  岡  数学の方が浅いです。こんなものは二代やろうとは思いません(笑)。西洋のもののうちではいちばん深いのでしょうけれども。西洋は、すべて時間・空間というわくのなかに入っているのを知らない。(184頁)  (それに対し、東洋は時空を超えることを体験的に知っている)  「身心脱落」  岡潔『一葉舟』角川ソフィア文庫  「私は(道元)「正法眼蔵」の上巻を、なんだかよい本と思って買ってきて座右に置いた。なんだかすばらしい景色のように思えるのだが、春霞(はるがす)みの中の景色である。そんな日々が長く続いた。十三年目に私にある刹那があった。その後この本のどこを読んでもすらすらわかる。それから、十七、八年になるが今でもそうである。しかしこの本は実は絵のようなものであるから、言葉で説明しないほうがよい。   身心脱落とは真如の月が雲を排して出るようなものである」(194-195頁)  「絵画」  岡潔『春風夏雨』角川ソフィア文庫  「ところが近ごろまでその(良寛の書を見る)機会を得なかったのだが、近ごろその写真版四冊を見ることができた。   第一冊を見ると、表紙に「天上大風」と大きな字で書いて署名している。字の配置は正方形の四隅に一字ずつ書いているのである。   私はそれを見ると、直ぐわかった。とっさで、何がどうわかったのかわからないが、一切がわかってしまったのであろう。良寛の書がいわば真正な書であることを、少しも疑わないようになったから。   じっと見ていると、何だかこせこせした心の中のもやもやが吹き払われて、心が段々清々しくなり段々ひろびろして行くような気がする。翌朝もう一度その四字を見ると、字の姿から見て、横に右から左に強い風が吹いているのである。   このはじめのわかり方を「信解(しんげ)」というのである。たとえば『正法眼蔵』に「智ある者若し聞かば即(すなわ)ちよく信解せん」という句が引いてある。   これにならって、第二のわかり方を「情解(じょうげ)」、第...

「良寛の書」

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  荒井魏『良寛の四季』岩波現代文庫 「古筆学の権威として知られる小松茂美さんは」「良寛書の魅力」を、 「独自のものだ、と思います。枯れた、寂(さび)た、わびた風情。言いがたい一つの線の美しさ…。いきなり真似て書いても、こんな字にならない。禅の修行による人間錬成の結果、無欲恬淡(てんたん)に至り得た境地からの自然な流露のままの字です」(126頁) と述べている。 『墨美 山本空外 ー 書論・各観 1979年7月号 No.292』墨美社  〈山本空外〉 「良寛和尚のごとき、外見はいかにも平凡のようでも、心は深く永遠の光に照らされている証拠をその墨蹟が物語っている」(55頁) (「唐の懐素上人といい、わが弘法大師といい」)「良寛の書にしてもそのよさを一語にしていえば、そう(「空」を書くと)いえるようである。いな、極言すれば「空」を書かなければ、未だ書道の門前に立つにすぎないともいえないことはなかろう」(49頁) 〈森田子龍〉 「良寛のあの細い細い線は、中にきりっと厳しい骨というか芯があって、そこから外に無限にはたらき出しています。無限の振幅があってそれが空間を奥行のある生きた世界にしています」(33-34頁) クリック、またはタップして、拡大してご覧ください。 「われありと」 「われありと たのむひとこそ はかなけれ ゆめのうきよに まぼろしのみを」(6-7頁) 「易 曰」 「易に曰く、錯然は則ち吉なり」(8-9頁) 「われありと」は、変体仮名で書かれています。学生時代 雲英末雄(きらすえお)先生にずいぶん鍛えられたはずなのですが、いまとなっては…。 「易 曰」では、「錯然は則ち吉なり」と保証された、それぞれの文字の、無邪気にくつろいだ姿が愉快である。絵を見ているかのようで楽しい。良寛の筆の運びに迷いはなく、濃淡もそのままで、なんの衒いもない。興にのって書き、後はふり返らず、といった風情の書である。  見ていると体が明るくなり、時を忘れ、迷子になる。  それはたとえば、「渡岸寺(どうがんじ)十一面観音像」,「法華堂 不空羂索観音立像」,また「興福寺 阿修羅像」の前に立ったときと同種の体験である。  空外先生は、弁栄上人に帰依した、浄土門の人である。書を拝見すれば境地がわかる、悟りの境地にあるか否かは書に表れる、と、こともな気にいっている。日本人では、空...

「山本空外_では書は信用であるか」

「書論各観の光はその心の深さにしか照応しない。したがって外観のよさと内面の心光とは、どこまでも混合してはならないし、あくまで別のものである。そのことを書ほどきびしく示すものが他にあるであろうか。書をかけば、そのことはまったく一目瞭然なのである。自己とは何かをいかに論議しても、またそれに関する研究書をどれほど読破しても、決まるものではない。わたくし自身その問題を東大の哲学科卒業論文(『カント及び現代のドイツ哲学における認識主観の意義』大正十五年三月)でも取りくんだし、以後今日まで約六十年も専攻し来ったが、それよりも書を見るほうが、よほどはっきりと書いたひとの心もわかり、自分の書を前にすれば自己の心を鏡に写したようなものと感ずる。生きた心の芸術として書以上のものはなかろう。終生自己の問題に哲学上取りくみ来ったわたくしは、心の宗教として念仏で一生をとおし、また自己の心を原点にする書芸術を久しく行ずるゆえんである」(『墨美 山本空外 ー 書論・各観 1979年7月号 No.292』墨美社 39-40頁) 「良寛和尚のごとき、外見はいかにも平凡のようでも、心は深く永遠の光に照らされている証拠をその墨蹟が物語っている」(『墨美 山本空外 ー 書論・各観 1979年7月号 No.292』墨美社 55頁) 「良寛の道詠に   草の庵ねてもさめても申すこと   南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏 とあるが、良寛の筆致に見入るほどわたくしは「無縁の慈」の深みに感応する」(『墨美 山本空外 ー 書と書道観(二)1973年6月号 No.231』墨美社 10頁) 「良寛の書のごときは、そうした「大慈悲」の書でもあり、この前に立つものをして、「無縁の慈をもって、もろもろの衆生を摂するなり」といえないであろうか。「仏心とは大慈悲なり」という、その仏心こそ主・客の無二を呼吸する、いのちのつながりの原点であるからである。その原点に立つ書論各観でなければ、生ける書とはいえない」(『墨美 山本空外 ー 書論・各観 1979年7月号 No.292』墨美社 41頁) 「かの『淳化閣帖』中の蕭子雲の書(「歴代名臣法帖第四」)を見ていても、時のたつのも忘れて自然の心に迫って際限ないものに感応する」『墨美 山本空外 ー 書論・各観 1979年7月号 No.292』墨美社 50頁) 「では美は信用であるか。そうである」(「真...

「山本空外,青山二郎_『道具茶』再び」

今日(2022/03/05)の朝方、 ◆ 龍飛水編『いのちの讃歌 山本空外講義録』無二会 ◇「わたくしの地平を越えて」 ◇「三日の命」 を読み終えた。 「わたくしの地平を越えて」は、三日間にわたって行われた「授戒会(じゅかいえ)」での「75分 × 9回」の「講義録」である。しかし、ここにいたっては、「空外先生」,「空外上人」とよぼうが、「講義」,「講話」といおうが、差しつかえのないものである。 白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』新潮文庫 「『道具茶』といふ言葉は偶像崇拝の意味だらうが、茶の根源的な観点は空虚にある様に思はれる。真の意味で、道具の無い所に茶はあり得ないのである。一個の道具はその道具の表現する茶を語つてゐる。数個の道具が寄つて、それらの語る茶が連歌の様に響き合つて、我々の眼に茶道が見えるのである。何一つ教はらないのに、陶器に依(よ)つて自得するのが茶道である。」(青山二郎『日本の陶器』) 「何一つ教はらないのに」といっているように、青山さんは茶道のことなんか、何一つ知らなかった。ひたすら陶器に集中することによって、お茶の宗匠の及びもつかぬ茶道の奥儀を極めたのだ」(83頁) 「わたくしの地平を越えて」 「茶席へ行った場合はその器が大事です。」「半分は器を見せて頂くことが茶席の仕事です。第一は、茶席に入ったら床の間の掛けものを拝見することです。わたくしは掛けものに書いてある「南無阿弥陀仏」を随分多く見ていますが、その殆(ほとん)どは、字になっていない。それは人間がなっていない証拠です。書は、心画だといいましたが、その方の心をずばり形に出すのです。人間はさとっているが字だけは迷っている、というような芸当はできない。字を書かせてみたら本物かどうか一発です。 (中略)  器だけではない、床の間に掛けてある字がわからなければいけません。主人の心づくしが掛けものにうかがえるからです。それから、釜でも水差でも茶碗(ちゃわん)でもです。茶杓(ちゃしゃく)はなおさら、茶入や棗(なつめ)でも、しかも、釜を掛けてある五徳がありますが、あれがまた大事です。だから、炭手前を拝見するときには、五徳を見るのが大切です。五徳の芸術がある。すばらしいです。ただ上に釜をのせればいいというものじゃない。 (中略)  お茶は中国あるいは中央アジアからきているけれども、それを茶道といえるところまで...

小林秀雄「壺中天」

白洲信哉 [編]『小林秀雄 美と出会う旅』(とんぼの本)新潮社  秦秀雄君の家で、晩飯を食っていると、部屋の薄暗い片隅に、信楽(しがらき)の大壷がチラリと見えた。持って行けよ、と壷は言っているので、鎌倉まで自動車に乗せて来た。どんな具合にだか知らないが、いずれ、秦君は勘定を附けにやって来るだろうが、この程度の壷は、ともかく一応は黙って持って還らないといけない。(壷)  私は、壷が好きだ。……古信楽の壷は、特に好きだ。その「けしき」が、比類がないからだ。「けしき」という言葉も面白い言葉である。これも、実体感、或は材質感のなかに溶けこんだ一種の色感を指していうものだ。(信楽大壷)  「壺中天(こちゅうてん)」という言葉がある。焼き物にかけては世界一の支那人は、壷の中には壷公という仙人が棲んでいると信じていた。焼き物好きには、まことに真実な伝説だ。私の部屋にある古信楽の大壷に、私は何も貴重なものを貯えているわけではないが、私が、美しいと思って眺めている時には、私の心は壺中にあるようである。(信楽大壺)(88頁)  私はこの話が好きである。いくら “ 近代批評の神様 ” とはいえ、簡単にこしらえた文章とは思えない。この簡潔さといい、言葉の置き方といい、随所に小林秀雄らしさを感じる。   結びの一文に託された思いが、最初にあったのだろう。それにしてもみごとな収束である。  89頁には写真が載っている。たいした物であることくらいは、私にもわかる。

小林秀雄「バカ、自分のことは棚に上げるんだ!」

「小林秀雄氏」 白洲正子『夢幻抄』世界文化社    そんなことを考えていると、色んなことが憶い出される。はじめて家へみえたとき、ー その頃は未だ骨董の「狐」が完全に落ちてない時分だったが、「骨董屋は誰よりもよく骨董のことを知っている、金でいえるからだ」という意味のことをいわれた。私にはよくのみこめなかったが、少時たって遊びに行ったとき、沢山焼きものを見せられ、いきなり値をつけろという。 「あたし、値段なんてわかんない」 「バカ、値段知らなくて骨董買う奴があるか」  そこで矢つぎ早に出される物に一々値をつけるハメになったが、骨董があんなこわいものだとは夢にも知らなかった。その頃小林さんは、日に三度も同じ骨董屋に通ったという話も聞いた。  あるとき、誰かがさんざん怒られていた。舌鋒避けがたく、ついに窮鼠猫を嚙むみたいに喰ってかかった。 「僕のことばかし責めるが、じゃあ一体、先生はどうなんです?」 「バカ、自分のことは棚に上げるんだ!」  最近はその舌鋒も矛(ほこ)をおさめて、おとなしくなったと評判がいい。(15-26頁)  多少なりとも誰もが「自分のことは棚に上げ」てものをいっている。その自覚なく、正義だけを盾にとってものをいう輩は窮屈であり、信用がおけない。  小林秀雄の寸鉄である。「現代批評の神様」からの贈り物である。早速いただくことにする。

TWEET「聖夜に」

 聖夜に行われる「主の降誕ミサ」に参加したいというのが、私の長年の願いである。  敬虔な祈りに包まれていたい。  理解することよりも、身体(からだ)で感じたことを大切にしたい。  教会の片隅で、鎮まっていたい。

黒井健 絵,嘉納純子 文『あのね、サンタの国ではね…』偕成社

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  黒井健 絵,嘉納純子 文『あのね、サンタの国(くに)ではね…』偕成社 」 〈内容紹介〉「サンタクロースって、クリスマス以外は何をしているのかな? 子どもの疑問に答え、サンタの国の1年間を楽しく紹介します」 以下の2冊の絵本、 ◇ 東逸子 イラスト,中村妙子 翻訳『サンタクロースっているんでしょうか?』偕成社 ◇ なかがわりえこ 著,やまわきゆりこ イラスト『ぐりとぐらのおきゃくさま』福音館書店 と、ともに 2024/12/26  Amazon から、姪の4歳になる Kさんにお贈りした。  が、どこで知ったのだろう。  4がつは「トナカイがっこうの にゅうがくしき」。「クリスマス・イブに そりをひく、めいよある パイロット・ トナカイに えらばれるよう、みんな、さっそく ねっしんに れんしゅうを はじめました」。  5がつは、サンタさんたちの体力測定。「なぜって、サンタたちが あんまり おもくなると、 トナカイたちが すいすい そらを とべないからです」。  8がつは「年(ねん)に 一(いち)どの たのしい なつやすみ。サンタたちは、いちにちじゅう、アザラシや イルカの おやこと あそびます」。 といった内容の愉快な絵本である。 「ハイホー!」  明日のクリスマス・イブに備えて、サンタさんたちもトナカイさんたちも抜かりなく、少々緊張した面持ちで、出番を今や遅しと待っていることだろう。  絵本とは “絵” が主です。簡単に頁を繰らないでください。 “絵” に面白みがあります。  また、教訓的な絵本は私の好みではありません。

折口信夫「冬至の日に,精霊ふゆる『ふゆ』」

中沢新一『古代から来た未来人 折口信夫』ちくまプリマー新書 「とても興味深いことに、「まれびと」論や芸能発生論ではもっとも重要な季節が冬至(とうじ)と夏至(げし)の季節におかれていたのに対して、『死者の書』(折口信夫著)で描きだされた新しい他界論では、春分と秋分の季節がもっとも重要な季節になっている。第一章で述べたように、冬至と夏至には、昼と夜の長さが極端(きょくたん)にアンバランスになり、そのときを選んで死者の霊が、生者の世界を大挙して訪問してくるのである。そのとき「あの世」との通路が開いて、仮面などで姿を隠(かく)した精霊が、舞(ま)いながら「この世」にあらわれてくるのだった」(86頁) ※ まれびと:折口信夫の用語。海のかなたの異郷(常世)から来訪して、人々に祝福を与(あた)えて去る神。 精霊ふゆる「ふゆ」 「多くの祭りが、昼と夜の長さがもっともアンバランスになる冬至と夏至に集中しておこなわれる。  この冬至と夏至をはさんで、「古代人」は精霊(スピリット)をこの世にお迎(むか)えする祭りをおこなう。夏至をはさんだ夏のお祭りの期間には、死霊(しりょう)のかたちをとった精霊の群れが、生きている者たちの世界を訪問してくる。死霊には、まともな死に方をして、しかも子孫たちから敬われつづけている先祖の霊もいれば、横死をとげた幼い子供のうちに亡(な)くなってしまった者たちの浮かばれない霊もいる。そういう多彩(たさい)な死霊たちが大挙して戻ってくるのを、「古代人」は心をこめてお迎えしようとしたのである。  その夏の時期の精霊来訪の祭りは、のちのち仏教化されて、お盆(ぼん)の行事となったけれど、そこには「古代人」の思考の原型がはっきり残っている。お盆の行事としておこなわれる「盆踊(おど)り」を見てみよう。 (中略)  冬至をはさんだ一、二か月は、その昔は霜月(しもつき)と呼ばれて、やはり精霊を迎える祭りがおこなわれた。しかし冬の期間におこなわれるこの祭りでは、夏の精霊迎えの祭りとはちがった考えが支配的だった、というのが折口信夫の考えである。この期間、精霊の増殖と霊力の蓄(たくわ)えがおこなわれるのである。折口信夫の考えでは、「冬(ふゆ)」ということばは、古代の日本語に直接つながっている。「ふゆ」は「ふえる」「ふやす」をあらわす古代語の生き残りなのである。  冬の期間に「古代人」...

TWEET「ひとりがいい。ふたりではもう多すぎる」

「ひとりがいい。ふたりではもう多すぎる」 ひとりは さびしい。 ふたりは なお さびしい。 さんにんは さらにさびしい。 ひとりがいい。ふたりではもう多すぎる。 「幾山河(いくやまかわ)越えさり行かば 寂しさの 終(は)てなむ国ぞ 今日も旅ゆく」   牧水   多情多感な「牧水が23歳の頃(明治40年)に中国地方を旅した際に」読んだ寂寥の歌である。  歳をとり、いまの私に牧水の感傷はない。が、懐旧の念、愛惜の思いならばある。

「ポン酢の味がした」

  TWEET「三輪の神糸(手延べ素麺)」  を麺つゆをつけずに食べ続けていた。味もそっ気もなかった。が、製造者の 「マル勝高田商店」さんが、そんな風であれば、先般 廃業の憂き目にあっている ことだろう。  と、 「三輪の神糸」 の味わいが、ある日突然わかった。そして、それはいまも変わらない。  この数日間「湯豆腐」ばかり食している。食材は「北海道 御札部浜 だし用 真昆布」と 「絹ごし さとの雪」、そして  ひとつまみの「塩」だけである。  昔ながらの手作りの豆腐と出会うために、どれだけのまがいものの豆腐を食べさせられたことだろう。かといって「 さとの雪」に不満がないわけではない。  豆腐に真昆布のうま味成分がからみ合って美味である。たれは要らない。  昆布を羅臼、利尻、 日高にかえてみようと思っている。  簡素な料理だけに、素材選びが決手となる。  何度食べても、「てっさ(ふぐ差し)」の味がわからない。これは私の沽券に関わることである。はたして「三輪の神糸」のように、飽くことなく食べ続ければ、淡白な味がわかるようになるのだろうか。が、高級魚のため逡巡している。 「(三島由紀夫『潮騒』の舞台となった)「神島」に「てっさ」を食べに行ってきたが、「神島」の「てっさ」はポン酢の味がした」 と言った初老の紳士 を知っている。その話を聞いた際には大いに笑った が、いまは 同類相憐れみ、それどころではなく深刻である。 「文章の書き方・みがき方_食す」 辰濃和男『文章の書き方』岩波新書 2016/01/26  こんな文章があります。  「冬に深川の家へ遊びに行くと、三井さんは長火鉢に土鍋をかけ、大根を煮た。  土鍋の中には昆布を敷いたのみだが、厚く輪切りにした大根は、妻君の故郷からわざわざ取り寄せる尾張大根で、これを気長く煮る。  煮えあがるまでは、これも三井さん手製のイカの塩辛で酒をのむ。柚子(ゆず)の香りのする、うまい塩辛だった。  大根が煮あがる寸前に、三井老人は鍋の中へ少量の塩と酒を振り込む。  そして、大根を皿へ移し、醤油を二、三滴落としただけで口へ運ぶ。  大根を噛(か)んだ瞬間に、  『む…』  いかにもうまそうな唸り声をあげたものだが、若い私たちには、まだ、大根の味がわからなかった」  なんということはない。大根の輪切りにしたやつを煮るだけの話...

TWEET「辞令的な口調」

  私の身辺に、終始 社交辞令的な口調で話す女性がいる。仮に Pさんと呼んでおく。  一見そつのない耳ざわりのいい内容の会話だが、数回会ってお話しするうちに嫌気がさした。そして、Pさんの話ぶりを「社交辞令的・儀礼的会話術」と名付けた。名付けるということは、ひと括りに括るということで、この範疇から免れるのは容易なことではない。  口数が多く、もの知りである。が、感情の表出が少ない。言葉の数は決して少なくないが、どこか落ち着きに欠ける。すべて社交から身につけた技巧なのだろう。当然 話の内容は薄っぺらである。  意地悪なことばかり並べ立てたが、世間では、世間知に長けた、世渡り上手な、よくできた女性で通っていることであろう。  そんなPさんに、私が口をはさむ余地はない。

TWEET「われありと」

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  近ごろ気になっている歌がある。良寛の歌である。 『墨美 山本空外 ー 書論・各観 1979年7月号 No.292』墨美社  ( クリック、またはタップして、拡大してご覧ください) 「われありと たのむひとこそ はかなけれ ゆめのうきよに まぼろしのみを」(6-7頁)  勝手にこしらえた「 われ」を 主人に仕立てあげ、顧みない人は虚しい。この「 ゆめのうきよに」「 まぼろしのみを」見て、一生を終えてしまうことになる、というほどの意であろうか。 「 ゆめのうきよ に 」と 「 ゆめのうきよ の 」とでは、歌のもつ意味が変わってしまうのは当然のことだろう。 「われ」はいずれ、「空」,「仏心」,「いのち」に包摂され、やがて溶融し消失してしまうものである。  私の書くのは仏教哲学・「哲学的信仰」であり、実体験でないのは口惜しい。我も「われありと たのむひと」の一人である。

「百閒先生の制札」

「百閒先生の寝姿_はじめに」  理由(わけ)もなく、ただ百閒先生の「寝姿」が気になり、手持ちの文庫に当たりました。そして、「居睡」(内田百閒『百鬼園随筆』福武書店)と「又寝」(内田百閒『蜻蛉玉 内田百閒集成15』ちくま文庫)の二つの作品を読みました。  さすがに百閒先生の「寝姿」は、美しく愉快でした。 「玄関の入口の面会謝絶の札のわきに、蜀山人の歌が貼ってある。    世の中に人の来るこそうるさけれ     とは云ふもののお前ではなし」(「又寝」220頁) 検索すると、 「世の中に人の来るこそうるさけれ     とは云ふもののお前ではなし」(蜀山人) 「世の中に人の来るこそうれしけれ     とは云ふもののお前ではなし」(亭主) 「面会謝絶」(亭主) 「春夏秋冬 日没閉門」(亭主) と、内田家の玄関先は常ににぎやかだったようです。  百閒先生に倣いて、私も制札を貼るべきか否か、目下沈思黙考中です。ひとえに快眠のためです。

「岡 潔『世間と交渉を持たない』に事よせて」

岡 潔・森田真生 編『数学する人生』新潮文庫 「私は毎日、大学の研究室で学生たちに数学の講義をし、自分の研究をしているものである。研究室は組織をもたぬ、私単独のものであるが、一つだけ規約を置いている。それは「世間をもち込むな」ということである。  私は世間と 交渉を持つこと、毀誉褒貶(きよほうへん)に一喜一憂することを極力避ける。 (中略) 最近は特に研究の方が忙しくなってきたので、テレビ、ラジオ、新聞なども目や耳から遠ざけている。 (中略) しばらく前、プッツリとテレビを見るのをやめてしまった。すると、とても気持ちがよい。まるで春先の気分のようで、浮き浮きした気持である。おかしなこともあるものだと思ったが、かりに『解放された気持をよろこんでいるのかもしれぬ』と名付けてみた」(230-231頁)  私も「 テレビ、ラジオ、新聞なども目や耳から遠ざけている」が、時折「 NHK   ONE ニュース 防災(アプリ)」の大見出しは見る。  しかし、「 世間と 交渉を持つこと、 毀誉褒貶に一喜一憂する ことを極力避ける 」となると少し怪しくなる。  そして、「 世間をもち込むな 」については、絶望の淵に立たされている。  世間が私を追ってくる。ときに世間に追いつかれ、追い越され、世間が先、私が後という凄惨なことが起こる。世間は仮借なく執拗である。 兼好,島内裕子校訂訳『徒然草』ちくま文庫 「第百十二段 明日は遠き国へ赴くべし」 「日、暮れ、道、遠し。我が生(しやふ)、既に蹉陀(さだ)たり。諸縁を放下(ほうげ)すべき時なり」  また、小林秀雄の随筆で知った 「陸沈 」。 水に沈むのはやさしいが、水なき陸に沈むのはむつかしい。 「 我が生、 既に蹉陀たり」、陸に沈むしかないだろう。  何事も、辺土は賤(いや)しく頑なであり、 「あまざかる鄙(ひな)」の明け暮れは、もの言わず腹ふくるることばかりである。 「ざっくばらんが大きらい」(梅棹忠夫)

TWEET「物が纏ったものを捨てる、

 北風が吹きはじめたころ,「煤払い」を終えた。その後 専ら,「捨てる」ことに専念している。  物を「捨てる」とは、それにまつわる “思い” を「捨てる」ということである。苦渋の一巡目、逡巡の二巡目、三巡目の未練。少しずつ歩を進めるしかないように感じている。目標は「人・もの・こと」からの解放である。 荒井魏『良寛の四季』岩波現代文庫 2022/02/22 「ぬす人に取り残されし窓の月」 人はこれほど「無一物」になれるものか。 良寛はこの期におよんでも風流である。  良寛に印可を与えた、備中玉島 円通寺の大忍国仙和尚をして「大愚良寛」といわしめた所以の一端がうかがえよう。 「一九九四年にパリの地下鉄内に世界各国の詩人の詩が掲示された。その時、この句が人気投票で一位に選ばれたというから」(138頁)、国際派である。 辰濃和男『歩き遍路―土を踏み風に祈る。それだけでいい。』海竜社 2021/12/31 「道後温泉のすぐそば」にある、「法厳寺(ほうごんじ)」は、「『捨て聖(ひじり)』といわれた時(じ)宗の祖、一遍上人(しょうにん)の生まれたところといわれている。詩人、坂村真民(しんみん)さんは『四国が生んだ二人の偉大な宗教家』として、空海と一遍をあげている。空海がたくさんの文章や書を残したのに対して、一遍は自分の記録をなにもかも捨てている。五十一歳で没するまで、生涯、旅びとだった。念仏勧進(かんじん)をいのちとし、破れ衣を着て、踊り念仏をひろめた。 (中略)  一遍の言葉は厳しい。「衣裳を求(もとめ)かざるは畜生道の業(ごう)なり。食物をむさぼりもとむるは餓鬼道の業なり。住所をかまふるは地獄道の業なり。しかれば、三悪道をはなれんと欲せば、衣食住をはなれるべきなり」 (中略)  一遍像を見ながら、歩き遍路の大々先達(せんだつ)がここにこそいると思った。  一遍は『はねばはね、踊らば踊れ」といって、歓びの踊りを踊りながら、念仏を唱えた」(259-260頁) 「畳一畳しきぬれば / 狭(せばし)とおもふ事もなし」( 205頁) 「よろづ生(いき)としいけるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずといふことなし」(252頁)  一遍上人に倣うことはとてもできないが、捨てるという主体も捨ててこそ、他力の本願があると思う。