小林秀雄「散文の形とその純粋性」

井伏君の「貸間あり」
小林秀雄『考えるヒント』文春文庫
明らかに、これは、作家が、言葉だけで、綿密に創り上げた世界であり、文章の構造の魅力を辿らなければ、這入って行けない世界である。作者は、尋常な言葉に内在する力をよく見抜き、その組合せに工夫すれば、何が得られるかをよく知っている。彼は、そういう配慮に十分自信を持っているから、音楽からも絵画からも、何にも盗んで来る必要を認めていない。敢えて言えば、この小説家は、文章の面白味を創り出しているので、アパートの描写などという詰らぬ事を決して目がけてはいない。私は、この種の文学作品を好む。(35-36頁)

 井伏君の初期作品には、極く普通の意味で抒情詩の味わいを持ったものが多かったが、恐らく、彼は、人知れぬ工夫に工夫を重ねて、「貸間あり」の薄汚い世界を得るに至った。彼の工夫は、抒情詩との馴れ合いを断って、散文の純粋性を得ようとする工夫だったに相違ない。なるほど、作の主題は、作者の現実観察に基づくものであろうが、現実の薄汚い貸間や間借人が、薄汚いままに美しいとも真実とも呼んで差支えない或る力を得て来るのは、ひたすら文章の構造による。これは、小説作法のいろはなどと言って片附けられるような事柄ではあるまい。むしろ、其処だけに作家の創造が行われる密室がある事を思うべきである。(39-40頁)

だが、私は繰返して言いたいのだが、これは、極めて純粋な散文なのだ。そして、この事は、あんまり解り易い事ではない。この作品には、私に、面白い小説と言わせるより、純粋な散文と言わせるような或る力がある。私は、この或る力を、作者の制作の密室の方へ私を向き直させる或る力を感じているのである。かつて、形というものだけで語りかけて来る美術品を偏愛して、読み書きを廃して了った時期が、私にあったが、文学という観念が私の念頭を去った事はない。その間に何が行われたか。形から言わば無限の言葉を得ようと努めているうちに、念頭を去らなかった文学が、一種の形として感知されるに至ったのだろうと思っている。私は、この事を、文学というものは、君が考えているほど文学ではないだとか、文学を解するには、読んだだけでは駄目で、実は眺めるのが大事なのだ、とかいう妙な言葉で、人に語った事がある。それはともかく、私が、「貸間あり」が純粋な散文だというのは、その散文としての無言の形を言う。何が書いてあるなどという事は問題でない、とでもい言いたげな、その姿なのである。(40-41頁)

井伏君が、言葉の力によって抑制しようと努めたのは、外から眼に飛び込んで来る、あの誰でも知っている現実感に他ならない。生まの感覚や知覚に訴えて来るような言葉づかいは極力避けられている。カメラの視覚は外を向いているが、作者の視覚は全く逆に内を向いていると言ってもよい。散文の美しさを求めて、作者は本能的にそういう道を行ったのだが、その意味で、この作は大変知的な作品だと言って差支えない。小説に理屈がこねられていれば、知的な作品であると思うのは、子供の見解であろう。(41-42頁)

 
    頓挫した。二度目の頓挫である。井伏鱒二の『貸間あり』を読みはじめ、一度(ひとたび)本を置くと、次に手に取るまでに随分時間を要する。「散文の形」といい、「純粋性」といい、「その美しさ」といい、私には見当がつかない。匙を投げた格好である。
 井伏鱒二と小林秀雄との解り合いは間違いのないことだろう。
 秀でた作品のその味わいが解らないのは致命的である。
 難しいことは考えずに、次回は通読しようと思う。感じることから解ることへと歩を進めようと思っている。両者の間には、小林秀雄のいう、「告白」と「主張」ほどの懸隔があるのは承知してのことである。