「神さまの声は耳に痛く」

「棟方志功で思い出すのは、漱石の『夢十夜』「第六夜」である。
 極度の近視だった棟方志功は、顔を、舐めるかのように版木に近づけ、彫刻刀を版木を自在に操りながら、物に憑かれたかのように作品と対峙していた。そこには微塵の躊躇(ためら)いもなく、その姿は我もなく汝もなくといった風だった。中学校の美術の時間に見た映画の、その印象はいまも鮮やかである。」


 ここ何日かの間、
「井伏君の『貸間あり』」(小林秀雄『考えるヒント』文春文庫)
を繰り返し読んでいる。文庫にして 10頁ほどの文芸批評である。小林秀雄による
「散文指南」,「散文読本」のつもりで読んでいる。
 その間(かん)には、2015/09/03 に書いた、
「夏目漱石『夢十夜』第六夜 と棟方志功」
の閲覧があり、読み返し、血の気がひいた。四文だけの文章ともいえない文章の推敲に手を拱いている。こころが変調をきたした。発症しないように、とおよび腰である。年を越しそうな勢いである。
「せいぜい悩むがいい」といった神さまの声が聞こえる。


下記、
「小林秀雄「井伏君の『貸間あり』」
である。