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10月, 2024の投稿を表示しています

TWEET「面壁九年」

 2024/08/18 から「般若心経」を唱えはじめたことは、たびたび書いたが、昨夕、読経後に訪れる「瞑想」の時間が、絶え間なく続き、 戸惑った。はじめてのことだった。しかし、 考えることに支障をきたし、狂気の世界の人になるかもれない、と戦々恐々としていた。  今日は「瞑想」の質が格段に向上し、「常態」と「瞑想」の往還が自在にできるようになった。椿事である。日常生活において、意のままに「瞑想」の時間がもてるということは望外の喜びである。 「般若心経」を唱えることの功徳を思う。 しかし、いまだ表層意識内のことである。  達磨大師の面壁九年にあやかろうといえば、不埒か。  断章が続きます。

TWEET「月がとっても青いから」

   月を見るのが好きだった。 「栂尾・高山寺」 2020/10/31 あかあかやあかあかあかやあかあか(表記は「くの字点」です)やあかあかあかやあかあかや月 山のはにわれもいりなむ月もいれよなよな(表記は「くの字点」です)ごとにまた友とせむ  上記の二首はいずれも明恵上人の詠まれた歌です。横書きでしか表記できないのが残念です。  満月の夜でした。明月が山の端から昇るのを、寒さに震えながら待ちました。 「高野山・金剛峯寺」 2021/11/19 「部分月蝕(満月)」 「 今回は部分月食とはいえ月の直径の98%が隠れるため、ほぼ月全体が隠れる皆既月食に近く、 今回と同じように、『 限りなく皆既に近い部分月食』が日本全国で見られたのは、140年前(1881年12月6日)までさかのぼります」 との記載があった。またとない朗報だった。 「栂尾・高山寺」,「高野山・金剛峯寺」前の駐車場から仰いだ月が、特に印象に残っている。  しかし、この一年あまり、夜空を仰いだ記憶がない。月のこともすっかり忘れていた。ところが、2014/09/18 の夕刻過ぎのことだった。月は私の目の前にあった 。満月の夜だった。不意のことにあわてた。この一年あまりの自分の不甲斐なさを思ったとき、「青い月」は、眩しくて見やることができず、あらぬ方(かた)に眼をやった。  月を思う契機となった。はじめから明月の鑑賞はつらい。新月から順を追って、お月見の習慣を取り戻そうと思った。  検索すると、私の望んだ満月は、「中秋の名月」の翌日の月だった。なにか因縁めいたものを感じた。だしぬけに「中秋の名月」でなく、救われたような気がした。  北の夜空の、北極星を中心とした天体ショーも恋しい。  断片が続きます。

TWEET「無為は転落す」

   有為は転変し、 有為は無常であるが、無為 は瞬時に転落する。 無為であり続けることは困難を極める。 「般若心経」を唱えた後に訪れる瞑想中でのことである。雑念が浮かぶと、経文の一節を思い、払拭することにしている。 「般若心経」が説く「空」と、「禅」のいう「無」の相違は、一応 心得ているが、それがたとえ、「生々とし た世界」で あろうとも、「無の意識さえ消失した世界」であろうとも、ともに、我もなく他人(ひと)もなく、鎮まった世界であることに違いないだろう。 「願いごとはない。  思い はただ、「般若心経」と一如になることである。 「般若心経」を唱えるかすかな、声ともつかないような、意味をともなわない経文を、前頭葉が 聞くともなく聞いている。私の自足した平安な「般若心経」体験である。しかしいまは、それもわずかな時間のことでしかない(2014/10/11)」 「思い」はずいぶん改善した。読経の質が瞑想の質を決めることも理解した。  倦まず弛まず孜々(ここ)として、 「私の仏道修行」はいま、緒に就いたばかりである。  断章が続きます。

TWEET「金木犀」

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 今回の自宅の解体工事では、庭もすべてつぶし、更地にする予定でいる。  昨日の午後、玄関を出ると、金木犀の匂いが漂っていた。  今秋が最後である。  金木犀は知ってか、知らぬか、いつになく意気盛んであった。そうと知ってか、知らぬか、「死花」を咲かせているのかもしれない。 「糸に学ぶ―田島隆夫」 白洲正子『日本のたくみ』新潮文庫 「結城の在に名人のお婆さんがいて、死ぬ前に寝床の中でひいた」という「死花」(202頁) のことを思いつつ 、しばらくの間、金木犀の香りに包まれていた。  あちこちから金木犀の匂いがする。金木犀の花期である。いままで、そんなことさえ思わずにいた。  札幌では、地植えの金木犀は枯れてしまったという、また家内に置いた金木犀も葉が落ち、数輪の花をつけたのみ、とのことである。  弟の金木犀への郷愁は意外だった。  また、床の間にある、飾り棚の “竹”が欲しい、という。こちらも意表を衝かれた格好である。 「飾り棚の竹」  人の数だけ思い出の品があり、郷愁がある。  解体工事は、11月の上旬に決まった。 追伸:竹には巧みな細工がしてあった。 「ふた節(白い部分)が天井の内にあり、先端には針金が巻きつけてある」 「もぬけの殻(天井部)」 「飾り棚」 「穴の中には釘の先が見える」 「飾り棚をはさんだ継ぎ目。2本の竹から成っていた」 「殺伐としています」  もちろん解体工事はこれしきのことでは済まず、残酷である。  断章が続きます。

TWEET「大野晋に “御足労”を乞う」

「御足労」,「御苦労」の混同・誤謬を、時折 見かける。 昨日も眼にした。  以下、「御足労」の意である。 『精選版 日本国語大辞典_iOS アプリ』 ご‐そくろう ‥ソクラウ【御足労】 〘名〙 (「ご」は接頭語) 相手を敬って、その人にわざわざ来てもらったり、行ってもらったりすることをいう語。 *錦木(1901)〈柳川春葉〉九 「然うでしたか、其は何とも御足労ゴソクラウでした」 これを機に、以下、「再掲」です。 TWEET「精選版 日本国語大辞典_iOS アプリ」 2022/08/01  もう10年ほど前になるのだろうか。興味本位で電子辞書を買ったが、一覧性に欠け、不自由で、間もなくさしあげてしまった。  カシオの電子辞書には、 ◆「 精選版 日本国語大辞典」小学館  が収録されていて、魅力的だったが、購入するまでにはいたらなかった。  2017/01/17 に、 ◆「精選版 日本国語大辞典」(iOS アプリ) が、リリースされた。発売当初には破格のお値段だった、と知り、また購入したのは、2020/02/23 のことだった。8000円だった。だいぶ出遅れた感を抱いた 。 ◆ 『精選版 日本国語大辞典(紙)』小学館 は、3分冊の大部な辞書で、各冊 16500円の定価がついている。 なお、 ◆『日本国語大辞典(紙)』小学館 は、13巻と別巻1冊からなり、 各巻 16500円である。  その後、間もなく、 ◆「日本語シソーラス 第2版」 (iOS アプリ) ◆「角川類語辞典」 (iOS アプリ) ◆「三省堂 類語新辞典」 (iOS アプリ) をインストールした。作文には、言葉をさがし、言葉を言い換えるために、類語辞典(シソーラス)が不可欠である。  なお、上から三つのアプリは、「物書堂」さんの仕事であり、同じアプリ(「辞書 by 物書堂」)内に移動すれば、横断検索ができ、便利である。  コレクションとして購入したが、 意外にも、使用頻度が多く、重宝している。  また、ネット上の「コトバンク」さんの急進ぶりには、目を見張っている。際限なく成長し、どこ を目指しているのか、不気味な存在である。ただ、不愉快な広告が多いのには、閉口している。 当然、 ◆「精選版 日本国語大辞典」  も表示されるが、やはりダウンロードした「 iOS アプリ」に分がある。  ご自身への「夏季見舞」に

TWEET「私の仏道修行」

  2024/08/18 から「般若心経」を唱えはじめ、いまでは「私の『般若心経』修行」の観を呈してきた。  願いごとはない。  思い はただ、「般若心経」と一如になることである。 「般若心経」を唱えるかすかな、声ともつかないような、意味をともなわない経文を、前頭葉が 聞くともなく聞いている。私の自足した平安な「般若心経」体験である。しかしいまは、それもわずかな時間のことでしかない。   今後、「般若心経」 を唱え続けることで、新たな感懐を抱くようになるだろう。それは楽しみであり、望みでもある。  読経後には必ず、決して短くない、 瞑想のときが訪れる。無私で満ち足りた時間である。瞑想は不意に訪れ、突如去るものとばかり思っていたが、違った。誦経後に不用意に動くと、瞑想の時間がだいなしになる。  読誦の質が、瞑想の質を決めるような気がしてならない。 「私の仏道修行」を続けます。  断章が続きます。 追伸: 「無私」,「自足」の二語は、小林秀雄を解くキーワードである。