「空外のうちに井筒を思う」
◆ 龍飛水編『いのちの讃歌 山本空外講義録』 無二会 ◆ 龍飛水編『廿世紀の法然坊源空 山本空外上人聖跡素描』無二会 いま上記二冊を併読している。 山本空外は、哲学者であり、 弁栄聖者(べんねいせいじゃ)の法系に属する浄土宗の僧侶である。上記二冊は「法話」ではなく、「講義録」であり、哲学の文章である。 空外は正確を期するために、そのつど原典にあたっている。たとえば、「般若心経」をサンスクリット語で読み、「新約聖書」は古代ギリシャ語で読んでいる。私の知るかぎり、空外は、サンスクリット語、中国語、ギリシャ、ラテン、 英・独・仏語に精通していた。空外にとって、語学の習得は抜き差しならぬ手段だった。 私は空外のうちに (三十数ヶ国語に通じていた)井筒俊彦を思う。 井筒は、 プラトンを論じ、「イデア論は必ずイデア体験によって先立たれなければならない」といい、またそれを、 「そっくり己れの身に引き受けて主体化」するという。 空外は自身の体験をいい、プロティノス( 新プラトン主義の始祖 )らに関しては井筒と同じ地平に立つ者である。 「要するに、神秘家たちの哲学的立場は、ヤスペルスの表現を使えば一つの「哲学的信仰」(philosophischer Glaube)であります。しかしここまでくれば、どんな哲学もそれぞれの「哲学的信仰」の基礎の上にうち立てられたものといわざるを得ません」 ( 井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』岩波新書 109頁)と井筒は書いているが、 信仰を広義にとらえたとき、世に信仰なき者はないといえよう。 「そっくり己れの身に引き受けて主体化」するとは、すなわち井筒の実存的体験であった。幾座もが連なる山脈(やまなみ)を踏破するなかで、井筒俊彦はしだいに透きとおっていった。 「彼(井筒俊彦)にとって、真実の意味における継承は深化と同義だった。 「唯識哲学の考えを借りて、私 (井筒俊彦) はこれ〔言語アラヤ識〕を意味的『種子(ビージャ)』が『種子』特有の潜勢性において隠在する場所として表象する」としながら、阿頼耶識の奥、「コトバ(実在、絶対的超越者、超越的普遍者、絶対無分節者)」が意味を産む場所を「言語アラヤ識」と呼び、特別の実在を与えた。「言語アラヤ識」と命名すべき実在に彼が遭遇し、それに論理の体を付与したとき、井筒は「東洋哲学」の伝統の継承者から、刷