「荒井魏『良寛の四季』岩波現代文庫」
山本空外の「書論」(「論書」,「書道哲学」)
「版を重ねて洛陽の紙価を高らしめた名著の復刻版」
に当たるのが適当か、と思っている。
◆『墨美 山本空外 ー 書と書道観 1971年9月号 No.214』墨美社
◆『墨美 山本空外 ー 書と書道観(二)1973年6月号 No.231』墨美社
◆『墨美 山本空外 ー 書論・各観 1979年7月号 No.292』墨美社
◆『墨美「書と生命 一如の世界」<対談> 山本空外 / 森田子龍 1976年12月号 No.266』墨美社
「序観」,「通観」,「各観 」の三巻と「書と生命」 の読み書きに二十日あまりの時日を費やした。貴重な読書体験だった。やはり空外先生は大きすぎる。
「良寛和尚のごとき、外見はいかにも平凡のようでも、心は深く永遠の光に照らされている証拠をその墨蹟が物語っている」(『墨美 山本空外 ー 書論・各観 1979年7月号 No.292』墨美社 55頁)
(「唐の懐素上人といい、わが弘法大師といい」)「良寛の書にしてもそのよさを一語にしていえば、そう(「空」を書くと)いえるようである。いな、極言すれば「空」を書かなければ、未だ書道の門前に立つにすぎないともいえないことはなかろう」(『墨美 山本空外 ー 書論・各観 1979年7月号 No.292』墨美社 49頁)
良寛について知ることは、皆無にちかかった。気になるのは良寛についてのことばかりだった。そして一昨日、陽が西にかたむきかけたころ、
◆ 荒井魏『良寛の四季』岩波現代文庫
を読み終えた。
荒井魏『良寛の四季』岩波現代文庫
人はこれほど「無一物」になれるものか。
「ぬす人に取り残されし窓の月」
良寛はこの期におよんでも風流である。良寛に印可を与えた、備中玉島 円通寺の大忍国仙和尚をして「大愚良寛」といわしめた所以の一端がうかがえよう。「一九九四年にパリの地下鉄内に世界各国の詩人の詩が掲示された。その時、この句が人気投票で一位に選ばれたというから」(138頁)、国際派である。
「古筆学の権威として知られる小松茂美さんは」「良寛書の魅力」を、
「独自のものだ、と思います。枯れた、寂(さび)た、わびた風情。言いがたい一つの線の美しさ…。いきなり真似て書いても、こんな字にならない。禅の修行による人間錬成の結果、無欲恬淡(てんたん)に至り得た境地からの自然な流露のままの字です」(126頁)
という。
「良寛さんの書は、生前からすでに偽物が出回っていた。」(126頁)
空外先生と小松さんの良寛の書に対する観点は異なっている。千の「贋」の内から、一つの「真」を選ぶことは可能なのだろうか。最も困惑し、他愛なく右往左往するのは『大愚良寛』さん本人かもしれないが、骨董に関するかぎり、青山二郎の眼に狂いはなかっただろう。
なお、「大正五年十月、上野の帝室博物館で良寛さんの書を見た文豪、夏目漱石は『兜をぬいだ』と、感嘆している」(125頁)との記載もみられる。
荒井魏(たかし)は、元毎日新聞記者であり、「良寛の四季」は、「二000年四月から二00一年三月まで毎日新聞日曜版」に連載されたものである。在職中の連載か、またその後改訂されたものかは不明である。
結構な作品だった。書けない時間が続いた。紫煙のなかで燻(くすぶ)っていた。同窓の者として、忌憚のない物言いをすれば、上等な文章とはいえず、不用意なカタカナ語の使用が目に障った。また、ことに優れた内容といったわけでもなく、良寛に対する、仏教に関する理解もあやしい。しかし、足で稼いだ「記事」,「記事」という制約内で書かれた作品と思えば、幾分 納得がいく。
「岩波現代文庫」という出版名だけを頼りに、Amazon で注文したが、「岩波文庫」に「現代」が付されたとき、いかほどのものになるか、喚起を促された格好である。
本書には、仏道修行に励む良寛の姿がみられないが、はたして良寛は、
「仏法に能く達したりと覚しき人は、いよいよ(くの字点)仏法うとくのみなるなり」(「遺訓」白洲正子『現代日本のエッセイ 明恵上人』講談社文芸文庫 124頁)
「我れ常に志ある人に対していふ。仏になりても何かせん。道を成じても何かせん。一切求め心を捨てはてて、徒者(いたづらもの)に成り還りて、ともかくも私にあてがふことなくして、飢え来たれば食し、寒来れば被(かぶ)るばかりにて、一生はて給はば、大地を打ちはづすとも、道を打ちはづすことは有るまじき』(白洲正子『現代日本のエッセイ 明恵上人』講談社文芸文庫 125頁)
明恵上人の、「遺訓」そのままの境地だったのだろうか。だとすれば、良寛の数々の諧謔ぶりは、大したものである。
空外先生も同様のことを書かれているが、
「(竜樹の説くように)仏教要語のすべてにわたって、これを一辺としか認めず、したがって仏・菩薩・菩提・般若波羅蜜までもこれを一辺として、どこまでも「無量般若波羅蜜の相」に迫らなければやまない」(『墨美 山本空外 ー 書論・各観 1979年7月号 No.292』墨美社 41頁)
明恵上人の言葉にしろ、空外先生の言葉にしろ、容赦なく凄みがある。
真相は、同じく同窓の大御所、
◆ 相馬御風『大愚良寛』考古堂書店「版を重ねて洛陽の紙価を高らしめた名著の復刻版」
に当たるのが適当か、と思っている。
「看病には貞心尼、弟子の遍澄らが当たった。だんだん衰弱が目立ってきた良寛さんは、薬も受け付けなくなる。貞心尼が嘆くと「うちつけに飯(いひ)絶つとにはあらねどもかつ安らひて時をし待たむ」と、詠んでいる。自然体の生き方そのままに、死の覚悟を固めたのであろう。
(中略)
与板から駆け付けた由之や貞心尼らが見守る中で、遍澄の膝を枕に亡くなったのは一月六日の午後だった。さほど苦しみはなく、眠るように息を引き取った、と伝えられている」(188頁)
「我ながら嬉しくもあるか弥陀仏の いますみ国に行くと思へば」
(『墨美 山本空外 ー 書論・各観 1979年7月号 No.292』墨美社 39頁)
安らけく、穏やかな最期だったことを思う。