「山本空外『書論・各観_1/2」
昨夜、
◆『墨美 山本空外 ー 書論・各観 1979年7月号 No.292』墨美社
◆『墨美 山本空外 ー 書論・各観 1979年7月号 No.292』墨美社
◇ 山本空外「書論・各観」(28〜39節)
の、「28,29 節」の再読を終えた。手間どった。「書論序観」,「書道通観」,「書論・各観 」、「三観」の最後をなすものである。
の、「28,29 節」の再読を終えた。手間どった。「書論序観」,「書道通観」,「書論・各観 」、「三観」の最後をなすものである。
「各観こそは各各性の行(ぎょう)観ともいうべきもので、まったく際限もないほど、書道を行ずるところにいかようにも取りくまれるし、掘りおこされもする。」「序・通二観を教門とすれば、各観は行門といえる。」(39頁)
「色紙」や「桐箱」,「肥松の盆」,「つまり何に書くかによっても、その書の雅致を異にしてくるが、いかなる筆で書くかによっても、また古墨か新墨か、その新・古の各各のよさ、さらに濃・淡のすり方、したがって硯をも吟味せざるをえなくなる等々、それでわたくしはその各各の取りあわせを生かしきっていくところを重層立体的各各円成とも称して学術用語にもしている。」(39頁)
「中国・日本の仏教を通じて、八宗の祖と仰がれもするほどの印度仏教の代表的思想家、竜樹(150-250)が、仏教の根幹といえる『大品般若』を釈した『大智度論』の巻第四十三の一文を左に挙げて、そこにいわゆる「中道を行ずる」ことをくりかえし力説するのが、まさに筆跡に行ずる各観にあたるわけなのである。後述するが、その「中」とは価値のうえでは「極」、すなわち最高という意味になり、したがってこれ以上のないところを各人なりに生きる心証が筆致に生動する。各観に相応する人生をいかに論じてみたところで、けっきょく「般若波羅蜜」(「多」を付しても原語は同じで、この梵語は、「悟りの智慧で彼岸に到った」という意)に帰するのほかない」「40-41項)
竜樹の解釈する「般若波羅蜜」の意味が理解できずに、繰り返し読んだ。私が読んだ「般若心経」の解釈とは、意を異にするものだった。ないがしろにするわけにはいかなかった。
たとえば、
「今は般若波羅蜜の体を明かす。何等かこれ般若波羅蜜なる。般若波羅蜜とは、これ一切諸法の実相にして、破すべからず、壊すべからず。(中略)
またつぎに常もこれ一辺、断滅もこれ一辺なり。この二辺を離れて、中道(「極」,最高の意)を行ずる、これを般若波羅蜜となす。
またまた常と無常、苦と楽、空と実、我と無我等も、またかくのごとし。」(40-41頁)
といった叙述が続く。
いくら「無化」しようが、「有」が「無というありよう(様態)」に、あるいは「対義語」にとってかわったことでしかなく、「ありよう(痕跡)」や「言葉」はいぜんとして残る。竜樹は、これらの残滓の片々を一掃することで、「空相」を保持したかったのではないだろうか、「空」も「空化」されなければならないのである、といま私は考えている。
「じつに自然のいのちに迫る極地が偲ばれる。かように仏教要語のすべてにわたって、これを一辺としか認めず、したがって仏・菩薩・菩提・般若波羅蜜までもこれを一辺として、どこまでも「無量般若波羅蜜の相」に迫らなければやまない」(41頁)
一見 型破りの考えのようでもあるが、ここまで徹底しなければ、やはり「般若空観」とはいえず、竜樹の真面目である。
追記:
「空」とは難かしくいえば「縁起」のことで(竜樹『中論』四)、これを説明して、「無自性の故に空なり、空亦(また)復(また)空なり」といわれる(青目、長行釈)。(『墨美 山本空外 ー 書論・各観 1979年7月号 No.292』墨美社 49頁)
「空亦(また)復(また)空なり」とはどういう意味なのであろうか。同様に考えればいいのであろうか。
「書道教門の最高峯といえば、わたくしは唐の孫過庭(648-703)の『書譜』と思うが、まさにそのとおりに書かれている筆跡こそ、すなわちこの行門が教門の真実を決定するからである。」(40頁)
「したがって心の芸術として書くのは、また書けるのは、それ(自然のいのち)しかないから、さすがに董其昌(1555-1636)だけあって、「いわゆる宇宙、手にあるもの」と断じている。(『画禅室随筆』)。趙孟頫(ふ)(1254-1322)も王羲之(307-365)の筆勢を、「その雄秀の気、天然より出ず、ゆえに古今もって師法となす」と絶賛するゆえんであり(「蘭亭跋」)、またその王羲之自身が、「もし書の器、必ず道に達せば、混元の理に同じ。(中略)陰気大にして風神生ず」(「右軍述天台紫真伝授筆法」、『正法正伝』巻五、一四丁)というほどで、自然のいのちが生動しないかぎり、書道にかなう点・画とは考えられない。
こうした序・通両巻とも一貫した論点からこの各観に深入りしていくと際限もないので、じつはここではその一角として、「点の祖」や「十二法」などについて言及例示するにとどめることにしたい。(42-43頁)