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TWEET「今日 京都女子大学 仏教学部の学生さんたちが」

 今日 「栂尾 高山寺」 の「石水院」で、職員の男性が、京都女子大学 仏教学部の先生に、 「学生たちは 『鳥獣戯画』 だけ見て帰るのか」 と言っていました。  その後 先生にお聞きすると、 「言いたいことはたくさんありますけどもね、 我慢しました」 ということでした。  恐いですね。  私は南縁で裸足になって日向ぼこしていました。  このことを P教授にメールでお伝えすると、 「小人の相手は還暦で卒業しました(^.^)」 との返信がきました。  面白いですね。 近江路、奈良大和路、京都を旅しています。

司馬遼太郎「倜儻不羈(てきとうふき)_その二」

「17 土佐の場合」 司馬遼太郎『この国のかたち 一(1986〜1987)』朝日文庫 「倜儻不羈(てきとうふき)」  という漢語は、まことに異様な字面が四個もならんでいてなじみにくい。しかし江戸期の知識人のあいだでは、ごくふつうのことばだった。ある種の独創家、独志の人、あるいは独立性のつよい奇骨といった人格をさす。  倜は “すぐれていて、拘束されないさま” で、儻は “志が大きくてぬきんでている” こと、羈は “馬を制御するたづな” 、不羈は “拘束されない” ということ。漢語としては紀元前から存在した。(もっとも、漢字にはときに同語反対義(アンビバレンス)があって、倜はスグレルという意味と、正反対のオロカという意味とがある。倜儻不羈の場合、世渡りからみればおろかともいえる)。  早稲田大学をおこした大隈重信が、自分の出身藩である肥前佐賀藩(薩長土肥の肥)のガリ勉主義の藩風を『大隈候(伯)昔日譚』のなかでののしっている。 「一藩の人物を悉く同一の模型に入れ、為めに倜儻不羈の気象を亡失せしめたり」  大隈がそのようになげいたように、肥は、全藩の師弟を組織して一種類の学制の中につめこみ、定期的に試験を施して、落第すれば先祖代々の家禄まで削るという、恐怖をもって一藩をかりたてた。しかも思想は朱子学というドグマで統一されていた。  このおかげで多くの秀才を出すことになったが、倜儻不羈の気象を亡失させた、と大隈はなげくのである。かれが後年、早稲田の地に一私学をおこした動機は、この批判のなかにもある。  この点、土は倜儻不羈の一手販売のような土地だった。  元来、土佐人には風土的精神として拘束を好まないところがあった(むろん、すべての土佐人がそうであったというのではない)。 (中略) 「頑質」  という用語も、江戸期、人格批評として、よく用いられた。頑固者などといえば一種の美質のようにきこえるが、たとえば長(ちょう)の吉田松蔭などは、門人を教える場合、これをマイナスの評価として用い、固定概念にとらわれて物や事が見えないおろかさという意味につかった。  (中江)兆民の場合、世間や人間を見る場合、ことさらに自分の思想の小窓からのぞくことをせず、自分の思想にあわない人物も、そこに魅力を感ずればたかだかと評価した。かれは『民約論』の訳者ながら明治天皇を敬慕し、西郷隆盛を敬愛し

司馬遼太郎「倜儻不羈(てきとうふき)_その一」

司馬遼太郎講演「文明と文化について」 2017/12/16 大学時代キャンパス内で、司馬遼太郎さんの講演をお聞きしたと思うのですが、定かな記憶はなく、頼りは、 司馬遼太郎『司馬遼太郎全講演(全5冊)』朝日文庫 だけです。記憶をたどります。 2018/01/12  書店の書棚に、「全5冊」が並んでいた。この機にと思いさがした。在学期間が長かったために、たどり着くまでに時間を要した。見当違い、ということもじゅうぶんに考えられた。  その講演は、 『司馬遼太郎全講演[4] 1998(II)-1991』朝日文庫 に、 「大隈重信が目指した文明」(29-42頁) と改題されて載っていた。  原題は、 「一九八八年十月二十日 東京・早稲田大学大隈講堂 大隈重信生誕百五十年記念講演 原題=文明と文化について」 であった。大学四年次に行われたものだった。  キャンパス内で聞いた講演中には、よく居眠りをした。それは、構内での講演に限られたことであった。学び舎が体質と合っていなかったのか、相性がよすぎたのか、と今更ながらに思うが、時すでに遅く、ボタンのかけ違えは、いまなお進行中である。これも人生、とあきらめている。  明治維新の官僚機構を支えたのは佐賀人だとよく言われますが、大隈はこの佐賀藩特有のガリ勉をののしっています。(33頁) 大隈と西郷は互いに嫌いでした 「ついに佐賀藩では倜儻不羈(てきとうふき)の人物を出すことは不可能になった」  独立心の強い、人の手綱で動かない人間を、倜儻不羈の士といいます。  大隈は、激しいと言ってもいいほどのリベラリストでした。特に教育面については、そういうはっきりした思想を持っていた人でした。文無しの政府をとにかく運営し、しかも経綸の才もあり、明治政府をつくりあげていった。  ところで大隈という人は西郷隆盛が嫌いでした。西郷も大隈が嫌いでした。ここからだんだん本題に入っていくのですが、二人の考え方には大きな隔たりがありました。  国というものをどう考えていくかが決定的に違ったのです。 (中略)  地生えの国々をネーションと呼び、人工的につくった、つまり法によってつくられた国をステートと呼ぶことにします。もっとも、ネーションとして始まった国々もやがてスーテトにならざるをえなくなります。フランス革命以後、国家というのは一個の法人であり、憲法その他の法律に

TWEET「なんてたって Amazon」

「興福寺国宝館ショップ」で、美術鑑賞用の単眼鏡を見つけた。 ◆ 「Vixen 単眼鏡 アートスコープ H4×12」 「美術鑑賞をより楽しむために欠かせないアイテム。それが単眼鏡です。  単眼鏡で美術作品を鑑賞する最大のメリットは、絵画や工芸の精緻な表現を拡大して見ることができること。肉眼では見えない美術品の細部に宿る美しさを堪能できます。  アートスコープシリーズ単眼鏡は美術鑑賞に最適な4倍(低倍率)と6倍(高倍率)の2種類をご用意しています。用途やユーザーレベルに合わせてお選びいただけます。」 ◆ 「Vixen オプションパーツ マルチモノキュラー用 反射防止フィルター」 「ビクセン製マルチモノキュラーシリーズ対応の反射防止PLフィルターです。観察している物の表面反射を抑え、鮮明にとらえます。 ラバープロテクター付きなので、単眼鏡がショーケースのガラスなどに直接ぶつかることを防ぐことができます。」 そして帰宅後、「 なんてたって Amazon」に注文した。そして今日届いた。早速のぞき見して楽しんでいる。禁断の遊びにふけっている。

「2020年秋 私の古社寺巡拝_覚書_1/3」

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2020/10/14 (水) 翌日に行われる第三テストの対策授業を終え、22:30 早々に出立。 2020/10/15 (木) ◇「法隆寺」 ◇「中宮寺」 2020/10/16 (金) ◇「薬師寺」 ◇「唐招提寺」 ◇「東大寺ミュージアム」 ◇「東大寺(大仏殿・二月堂)」 2020/10/17 (土) ◇「興福寺 国宝館」 ← とりわけ、 「阿修羅像」 「帝釈天立像」 「木造 千手観音菩薩像」 はすばらしく、恍惚として去り難く、またの機会を約しました。 ◇ 「奥村記念館」 ← 奈良市春日野町 ◇「東大寺ミュージアム」 ←「塑像日光菩薩立像」,「塑像月光菩薩立像」,「四天王立像」に魅かれ再訪。 2020/10/18 (日) ◇ 「Hotel & Resorts NAGAHAMA(喫茶室)」 ← 滋賀県長浜市大島町 ◇ 「国友鉄炮ミュージアム」 ←  滋賀県長浜市国友町 ◇ 「渡岸寺(どうがんじ)」 ← 滋賀県長浜市高月町 ← 長浜は「観音の里」です。 「渡岸寺」 2020/10/19 (月) 11:00 帰宅

島崎藤村「椰子の実」

 秋が忍び足でやってきた。が、雲行きが怪しく、コロナ禍に迎えた「はじめての秋」である。  のっぴきならない人事ゆえに、いつになく秋の風物が愛おしく感じられる。こんな時季にこそ、目を凝らし耳をそばだてて、日本の秋を歳時として受け止めたいたいと思っている。  流浪の秋であり、望郷の秋である。 「椰子の実」 作詞:島崎藤村  作曲:大中 寅二 名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子の実一つ 故郷の岸を 離れて 汝(なれ)はそも 波に幾月(いくつき) 旧(もと)の木は 生いや茂れる 枝はなお 影をやなせる われもまた 渚(なぎさ)を枕 孤身(ひとりみ)の 浮寝(うきね)の旅ぞ 実をとりて 胸にあつれば 新(あらた)なり 流離(りゅうり)の憂(うれい) 海の日の 沈むを見れば 激(たぎ)り落つ 異郷の涙 思いやる 八重の汐々(しおじお) いずれの日にか 国に帰らん 「歌詞の誕生については、柳田國男が愛知県の伊良湖岬 (いらごみさき)に滞在した際の体験が元になっている。  1898年(明治31年)夏、東京帝国大学2年だった柳田國男は、伊良湖岬の突端で1カ月滞在していた際、海岸に流れ着いた椰子の実を見つけた。 『風の強かった翌朝は黒潮に乗って幾年月の旅の果て、椰子の実が一つ、岬の流れから日本民族の故郷は南洋諸島だと確信した。』  柳田國男は、親友だった島崎藤村にその様子を話し伝えた。藤村はこの話にヒントを得て、椰子の実の漂泊の旅に自分が故郷を離れてさまよう憂いを重ね、歌曲『椰子の実』の詩を詠んだという。」  以下、 柳田國男「藤村の詩『椰子の實』」 です。ご参考まで。

岡潔「懐かしい」

岡潔 著,森田真生 編『数学する人生』新潮文庫 「序 いま、岡潔を読むということ」  晩年になっても、岡には様々な感情が渦巻いている。特に、自我意識の肥大化と物質的欲望に溺(おぼ)れていく時代に対する怒り、嘆き、悲しみは、年を経るごとに募る一方である。自他を超えて「通い合う心」の中にこそ生きる喜びがあると確信していた彼にとって、自我を前面に押し出していく社会の傾向は、何としても修正されなければならない時代の誤(あやま)ちであった。  人は本来、ただそこにいるだけで懐(なつ)かしいのだと岡はいう。「懐かしい」というのは、必ずしも過去や記憶のことではない。周囲と心を通わせ合って、自分が確かに世界に属していると実感するとき、人は「懐かしい」と感じるのである。だから、自他が分離する前の赤ん坊にとっては、外界のすべてが懐かしい。その懐かしいということが嬉(うれ)しい。  生きているという経験の通奏低音は「懐かしさと喜び」なのだ。これが、岡の根本的な信念である。(9-10頁)  始元に還れば人皆懐かしく、「ことがことする」世界、「ものがものする」世界、「自己が自己する」、すべてが渾然一体とした世界にあっては人は喜びを感じる、と私は解釈している。

「岡潔のある風景」

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岡潔 著,森田真生 編『数学する人生』新潮文庫 「奈良市の自宅での執筆風景。岡 65歳の頃」 「奈良の自宅の前で思索にふける。65歳の頃」

「名月、そして十六夜の月」

昨夜中秋の名月を眺めながら岡潔を思った。そして、以下の四冊を注文した。 ◇ 岡潔『紫の火花』朝日文庫 「私の人生に表現せられた私の情緒を見ていると、やはり『長夜の一閃光』のように思えてくる」(まえがきから)。「情緒」「教育」「前頭葉」── 近年再評価が高まる数学者による、独自の思想の深まりを書いた朝日新聞社刊行の名著、55年ぶりの復刻」 ◇ 岡潔,司馬遼太郎『萌え騰るもの』土曜社 ◇ 岡潔 著,森田真生 編『数学する人生』新潮文庫 ◇ 森田真生『数学する身体』新潮文庫 小林秀雄賞受賞作 また、今夜十六夜の明るい月を見上げながら、「高山寺にかかる月」を思い、明恵上人を偲んだ。   2020/08/07「高山寺にかかる月」  2019/05/19 に訪れた栂尾山 高山寺は、台風24号の被害で大規模修復工事中でした。わずかに石水院しかのぞむことができませんでした。高山寺の新緑はすばらしく、ぜひ来年の新緑の季節にいらしてください、と受付の女性にいわれました。  現在サイトには、令和2年3月31日をもって改修工事が完了した旨の、 「台風災害復旧工事完了の御挨拶」 が掲載されています。  新型コロナ禍の下、県境(けんきょう)をまたいでの旅行ははばかられ、明恵上人が友とした高山寺にかかる月を拝するのはいつの日か、とそんなことばかりを思っています。  今日は立秋です。残暑厳しき折、高山寺で求めた 「扇子〈国宝 鳥獣戯画〉」 をぱたぱたしています。 「高山寺慕情」 白洲正子『私の古寺巡礼』講談社文芸文庫  彼はお寺(高山寺)が騒がしくなると、いつも裏山の楞伽山(りょうがせん)へ逃げて行った。「この山中に面の一尺とあらんほどの石に、予が座せぬはよもあらじ」といっているが、前述の「座禅像(明恵上人樹上座禅像)」は、その姿を写したものである。その姿が私には、菩提樹の下で成道したお釈迦さまのように見えてならない。明恵上人は、華厳宗にも、真言密教にも、禅宗にも通じていたが、ほんとうに信じていたのは、仏教の宗派ではなく、その源にある釈迦という人間ではなかったか。(164-165頁) 「釈迦という人間」、明恵上人、そして白洲正子、この三者の響き合いは美しい。  そして、試験明けの休日には高山寺を訪ねることにした。  二夜続きの明月により私の心はすっかり鎮もった。