司馬遼太郎「倜儻不羈(てきとうふき)_その一」

司馬遼太郎講演「文明と文化について」
2017/12/16
大学時代キャンパス内で、司馬遼太郎さんの講演をお聞きしたと思うのですが、定かな記憶はなく、頼りは、
司馬遼太郎『司馬遼太郎全講演(全5冊)』朝日文庫
だけです。記憶をたどります。

2018/01/12
 書店の書棚に、「全5冊」が並んでいた。この機にと思いさがした。在学期間が長かったために、たどり着くまでに時間を要した。見当違い、ということもじゅうぶんに考えられた。
 その講演は、
『司馬遼太郎全講演[4] 1998(II)-1991』朝日文庫
に、
「大隈重信が目指した文明」(29-42頁)
と改題されて載っていた。
 原題は、
「一九八八年十月二十日 東京・早稲田大学大隈講堂 大隈重信生誕百五十年記念講演 原題=文明と文化について」
であった。大学四年次に行われたものだった。
 キャンパス内で聞いた講演中には、よく居眠りをした。それは、構内での講演に限られたことであった。学び舎が体質と合っていなかったのか、相性がよすぎたのか、と今更ながらに思うが、時すでに遅く、ボタンのかけ違えは、いまなお進行中である。これも人生、とあきらめている。


 明治維新の官僚機構を支えたのは佐賀人だとよく言われますが、大隈はこの佐賀藩特有のガリ勉をののしっています。(33頁)

大隈と西郷は互いに嫌いでした
「ついに佐賀藩では倜儻不羈(てきとうふき)の人物を出すことは不可能になった」
 独立心の強い、人の手綱で動かない人間を、倜儻不羈の士といいます。
 大隈は、激しいと言ってもいいほどのリベラリストでした。特に教育面については、そういうはっきりした思想を持っていた人でした。文無しの政府をとにかく運営し、しかも経綸の才もあり、明治政府をつくりあげていった。
 ところで大隈という人は西郷隆盛が嫌いでした。西郷も大隈が嫌いでした。ここからだんだん本題に入っていくのですが、二人の考え方には大きな隔たりがありました。
 国というものをどう考えていくかが決定的に違ったのです。
(中略)
 地生えの国々をネーションと呼び、人工的につくった、つまり法によってつくられた国をステートと呼ぶことにします。もっとも、ネーションとして始まった国々もやがてスーテトにならざるをえなくなります。フランス革命以後、国家というのは一個の法人であり、憲法その他の法律により、隅々まで治められる。それが近代国家というものでした。大隈は、日本は法家の国だと言ったのです。法によって治められる、ステートを志向した。
 しかし西郷はネーションにこだわったのでしょうね。日本の良さ、侍の良さにこだわった。自分たちが起こした明治維新によって、その良さがつぶされていくのを感じて、悲しみを持ったのでしょう。大変偉い人でしたが鹿児島に帰っていきます。やがて西南戦争で政府と戦う道を選びました。
 西郷はわかっていない、そう大隈は考えたのでしょうね。大隈の志している近代国家、ステートが西郷にはわからなかった。二人の違いはそこにあったのでしょう。大隈はフランス革命以来、ヨーロッパやアメリカがつくりあげてきた、普遍的な国家を志向した。法による、近代国家という文明に参加しようとしたのです。(33-35頁)

「日本は儒教の国ではなく、法家の国だ」
 大隈重信の言葉には、ステートを目指す志がこめられていたのでしょう。(42頁)


 読み終えてみれば、「大隈重信生誕百五十年記念」に寄せた、司馬遼太郎による「大隈重信、賛美の歌」でした。