岡潔「懐かしい」
岡潔 著,森田真生 編『数学する人生』新潮文庫
「序 いま、岡潔を読むということ」
晩年になっても、岡には様々な感情が渦巻いている。特に、自我意識の肥大化と物質的欲望に溺(おぼ)れていく時代に対する怒り、嘆き、悲しみは、年を経るごとに募る一方である。自他を超えて「通い合う心」の中にこそ生きる喜びがあると確信していた彼にとって、自我を前面に押し出していく社会の傾向は、何としても修正されなければならない時代の誤(あやま)ちであった。人は本来、ただそこにいるだけで懐(なつ)かしいのだと岡はいう。「懐かしい」というのは、必ずしも過去や記憶のことではない。周囲と心を通わせ合って、自分が確かに世界に属していると実感するとき、人は「懐かしい」と感じるのである。だから、自他が分離する前の赤ん坊にとっては、外界のすべてが懐かしい。その懐かしいということが嬉(うれ)しい。
生きているという経験の通奏低音は「懐かしさと喜び」なのだ。これが、岡の根本的な信念である。(9-10頁)
始元に還れば人皆懐かしく、「ことがことする」世界、「ものがものする」世界、「自己が自己する」、すべてが渾然一体とした世界にあっては人は喜びを感じる、と私は解釈している。