TWEET「シャルターから望む明月」

いま東の空に満月がかかっています。
高山寺で拝した明月からちょうど一巡した格好です。

2020/10/31
「再び高山寺です」


あかあかやあかあかあかやあかあか(表記は「くの字点」です)やあかあかあかやあかあかや月
山のはにわれもいりなむ月もいれよなよな(表記は「くの字点」です)ごとにまた友とせむ

上記の二首はいずれも明恵上人の詠まれた歌です。横書きでしか表記できないのが残念です。
満月の夜でした。明月が山の端から昇るのを、寒さに震えながら待ちました。


名月や池をめぐりて夜もすがら
芭蕉の句です。
「名月」とは「中秋の名月」をさすとのことですが。
如何せん如何せん。夜もすがら、如何せん。「名月」をいただいて、如何せん。
今日は庭でシェルター泊か、と思っております。

「高山寺慕情」
白洲正子『私の古寺巡礼』講談社文芸文庫
 彼(明恵上人)はお寺(高山寺)が騒がしくなると、いつも裏山の楞伽山(りょうがせん)へ逃げて行った。「この山中に面の一尺とあらんほどの石に、予が座せぬはよもあらじ」といっているが、前述の「座禅像(明恵上人樹上座禅像)」は、その姿を写したものである。その姿が私には、菩提樹の下で成道したお釈迦さまのように見えてならない。明恵上人は、華厳宗にも、真言密教にも、禅宗にも通じていたが、ほんとうに信じていたのは、仏教の宗派ではなく、その源にある釈迦という人間ではなかったか。(164-165頁)

「釈迦という人間」、明恵上人、そして白洲正子、この三者の響き合いは美しい。