「令成元年 秋空の下 _古い伝えの竹生島」

「2019/10/31 拝復 P教授様_竹生島は依代でした」
こんにちは。
 舟遊びに見切りをつけ、竹生島を巡ってきました。視界を妨げるもののない琵琶湖は「淡海」でした。
 「宝物殿」の、
◆「弘法大師上新請来目録(コウボウダイシジョウシンショウライモクロク)(重要文化財)」
「弘法大師が唐より帰朝された大同二年(八0七)、平城天皇に献じた経論疏類(キョウロンショルイ)の目録である。本文にあたる料紙にはうすい金罫(キンケイ)を施し、五百十行にわたって、新約等経百四十二部二百四十七巻、梵字真言讃四十二部四十四巻、論疏章等三十二部百七十巻、その他の項目をあげ、奥書に「大同元年十月二十二日入唐学法沙門空海」とあり、平安時代中期の写本である。(後略)」(「竹嶋」発行所 宝厳寺寺務所 / 解説 澤実英)
及び、
◆「弘法大師諡(シ)号勅書
「真言宗の開祖空海(クウカイ)(七七四-八三五)は讃岐(サヌキ)国の生れ、延暦二十二年(八0四)最澄(サイチョウ)とともに入唐留学、長安で恵果(ケイカ)に真言宗を学び、二年後に帰国、弘仁七年(八一六)高野山に金剛峯寺を建て、弘仁十四年京都に東寺(教王護国寺)を勅賜(チョクシ)された。書や詩文にも秀で、とくに書は三筆の一人ともてはやされた。庶民教育にも意を用い、綜芸種智院(シュゲイシュチイン)を開いた。醍醐天皇は、延喜二十一年(九二一)十月二十七日、小納言朝臣惟助(コレスケ)に勅し、弘法大師の諡号をおくり、生前の偉業をたたえられた勅書である。諡号とは死後に生前特別の業績のあった者にのみ天皇より賜わるものである。少納言は三人いて、詔勅宣下(ショウチョクセンゲ)のことをつかさどり、内印(天皇御璽(ギョジ)、官印(太政官印)を取りあつかう役である。」(「竹嶋」発行所 宝厳寺寺務所 / 解説 澤実英)
が特に印象的でした。
 司馬遼太郎の「空海の風景」を思い、井筒俊彦を思いました。
 竹生島は依代でした。
 帰りの船中では、白く泡立つ引き波をうつらうつらしながら眺めていました。
 その後、湖岸の石積みに座って対岸の山の端に沈む夕日を眺め、湖西に向かいました。

添付画像、どうもありがとうございました。
恍惚としていますね。陰影は清濁併せ呑む、といった感じでいいですね。
秋涼の候、くれぐれもご自愛ください。
FROM HONDA WITH LOVE.