「寒露の今日_夢は枯れ野をかけ廻る」

「大和は 国のまほろば たたなづく 青垣山ごもれる 大和し 美し」
 その翌日には、聖林寺の十一面観音菩薩像を拝観し、そして『天平の甍』を望み、あわよくば東大寺へと欲張りなことを考えています。

「聖林寺から観音堂へ」
白洲正子『十一面観音巡礼』講談社文芸文庫
はじめて聖林寺をおとずれたのは、昭和七、八年のことである。当時は今とちがって、便利な参考書も案内書もなく、和辻哲郎氏の『古寺巡礼』が唯一の頼りであった。写真は飛鳥園の先代、小川晴暘氏が担当していた。特に聖林寺の十一面観音は美しく、「流るる如く自由な、さうして均衡を失わない、快いリズムを投げかけてゐる」という和辻氏の描写を、そのまま絵にしたような作品であった。聖林寺へ行ったのは、それを見て間もなくの事だったと記憶している。
(中略)
お寺へ行けばわかると思い、爪先上りに登って行くと、ささやかなお堂につき当った。門前には美しいしだれ桜が、今を盛りと咲き乱れていた。
 案内を乞うと、年とったお坊さまが出て来られた。十一面観音を拝観したいというと、黙って本堂の方へ連れて行って下さる。本堂といっても、ふつうの座敷を直したもので、暗闇の中に、大きな白いお地蔵さんが、座っていた。「これが本尊だから、お参り下さい」といわれ、拝んでいる間に、お坊さまは雨戸をあけてくださった。さしこんで来るほのかな光の中に、浮び出た観音の姿を私は忘れることが出来ない。それは今この世に生まれ出たという感じに、ゆらめきながら現れたのであった。その後何回も見ているのに、あの感動は二度と味えない。世の中にこんな美しいものがあるのかと、私はただ茫然とみとれていた。(7-8頁)

白洲正子の叙事、叙情、情景描写には、やはり見入ってしまう。


井上靖『天平の甍』
 平成九年三月に唐招提寺を訪れた季節、また平成十四年二月に名古屋市博物館で開かれた 「唐招堤寺金堂平成大修理記念『国宝 鑑真和上展』」 で鑑真和上坐像を拝した季節のことが思い出されます。また、奈良国立博物館『国宝 鑑真和上展 唐招提寺金堂平成大修理記念 公式図録』が手元にあります。

 井上博道『東大寺』中央公論社 で、毎月六日には戒壇院千手堂にて、「鑑真講式(がんじんこうしき)」の法会が行われていることを知りました。「鑑真講式」については、
「戒壇院をきずいた鑑真和上の命日(天平宝字七年〔七六三〕五月六日寂)に、唐招提寺に伝わる講式を移し、法会が行われる。和上の渡航の苦心や、伝戒の様子が説かれる。」
との説明があります。月に一度の法会です。鑑真和上への思いがしのばれます。


「天平の甍」に仮託したもの
 「天平の甍」の意味するところは、と終始そんなことを考えながら読みました。唐招提寺の甍。東大寺の甍。日本国を鎮め、庇い、護るために身命を屠して渡日した、鑒真和上の表徴としての甍。井上靖が「天平の甍」に仮託したものが、最後に具体的な形をとって現れるとは思いもよらぬことでした。突然さしだされた「解答」にあわてました。推理小説を読んでいるかのようでした。やはり『天平の甍』は「天平の甍」であり、それがすべてであって、この一語につきます。
 ブログ上に「謎解きの答え(?)」を載せるのはためらわれ、著者へのまた読者に対して礼を失するのは明らかで、これ以上のことはさしひかえさせていただきます。実際に手にとってご覧になってください。

 「二十日の暁方(あけがた)、普照は夢(ゆめ)とも現実ともなく、業行の叫(さけ)びを耳にして眼覚(めざ)めた。それは業行の叫びであるというなんの証(あか)しもなかったが、いささかの疑いもなく、普照には業行の叫びとして聞こえた。」(新潮文庫 181頁)

 以下に続く描写はあざやかです。一見冴えない端役の業行への井上靖の目配りは細やかで、透明感をともなったありありとした筆致が哀しみを誘います。

 『空海の風景』での司馬遼太郎に比すれば、『天平の甍』の井上靖の筆の運びは軽妙で、二作品を日数をおかずに読み、『空海の風景』という「異色の景色」に親しんだ私にとっては、『天平の甍』での時の経過は早く戸惑いを覚えました。


滔々と時は流れ、私たちは当代という歴史に抗うことはできず、どうしようもなく歴史の内に位置づけられている、との思いを強くしました。


今秋 奈良大和路へと思っています。