「伊勢・熊野_巡拝の道行き」

2026/05/10
◇「椰子の実」歌碑
「歌碑」には、島崎藤村の「椰子の実」の詩が刻まれていた。

「椰子の実」歌碑
(拡大してご覧ください)

 また裏面には、その由来が刻まれていた。
「明治三十年の夏 伊良湖に 逗
(留)した 柳田國男氏が この 磯に 漂着した 椰子の実 を拾い 東京に持ち帰り 親友 島崎藤村氏に 見せて この 詩が 生れたことは 昭和二十七年十月 柳田氏の 随筆 海上の道で 明かにされたものである。
        昭和三十六年 陽春
        記念のため これを 建てる
昭和三十六年 丑之歳 陽春 建立」
 さらに作曲者「大中寅ニの碑」があった。
「椰子の実」は「夏は来ぬ」とともに、私にとって大切な歌である。土居裕子さんの歌で聞いている。

◇「伊良湖オーシャンリゾート(旧伊良湖ビューホテル)」
「ランチビュッフェ&日帰り入浴」
 目の前には、太平洋、恋路ヶ浜(こいじがはま)が広がっていた。


 その後 15:20 発の「伊勢湾フェリー」で鳥羽に向かった。潮風に吹かれ、船首波の綾なす彩りを見つめていた。
 
◇「瀧原宮(たきはらのみや)」
「別宮」である。
 夕闇迫るころ参拝した。
「御手洗場(みたらしば)」である、

「頓登川(どんとがわ)」

「頓登川」の清らかな谷川の水を しばし見つめていた。

◇「道の駅 奥伊勢木つつ木館」


「瀧原宮」と目と鼻の先にある。
 車中泊。


2026/05/11
◇「瀧原宮」
 今回 二度目の参拝だっだ。早朝の「瀧原宮」には人気がなく、清々しかった。
「瀧原宮(たきはらのみや)」,「瀧原竝宮(たきはらのならびのみや)」,「若宮神社」,「長由介(ながゆけ)神社(川島神社)」の「順にお参り下さい」と書かれた「立て札」が立っている。いずれもかわいらしいお社である。

「瀧原竝宮,瀧原宮」

「瀧原宮」

「瀧原宮」

司馬遼太郎『この国のかたち 五「神道」』文春文庫
「古神道というのは、真水(まみず)のようにすっきりとして平明である。
 教義などはなく、ただその一角を清らかにしておけば、すでにそこに神が在(おわ)す。
 例として、滝原の宮(瀧原宮)がいちばんいい。
 滝原は、あまり人に知られていない。伊勢(三重県)にある。伊勢神宮の西南西、直線にして三十キロほどの山中にあって、老杉の森にかこまれ、伊勢神宮をそっくり小型にしたような境域に鎮まっている。
 場所はさほど広くない。
 森の中の空閑地一面に、てのひらほどの白い河原石が敷きつめられている。一隅にしゃがむと、無数の白い石の上を、風がさざなみだって吹いてゆき、簡素この上ない。」(28-29頁)

◇「皇大神宮(内宮)」
 たくさんの人がいても、神域内は、やはり清々しい。
「内宮」の「御手洗場」である「五十鈴川」の流れも清らかだった
 その後、「御正殿(ごしょうでん)」を参拝した。

「御正殿」

 令和15年の秋に行われる「第六十三回 神宮 式年遷宮」の準備がはじまっていた。ご造営のためのご奉賛を行うと、「御垣内(みかきうち)特別参拝の許可証」をいただいた。次回は正装しての「特別参拝」である。

「豊受大神宮(外宮)」
「御正殿」を参拝した。

「御正殿」

 その後、「古札納所」にお札を納め、「授与所」で「お神札」をいただいた。今回の旅は、お神札を納め、新しいお神札をいただく旅でもあった。
 そして、外宮に内接する「せんぐう館」の休憩所で休息し、「飛瀧神社(ひろうじんじゃ)(那智の滝)」までの 145km の道のりに備えた。

◇「飛瀧神社(那智の滝)」
 到着したのは黄昏時だった。
「那智の滝(御神体)」を前にして、「二拝二拍手一拝」し、踵を返した。
 薄暮のなか、九十九折の坂道を下るのはためらわれた。

◇「道の駅 なち」


 那智駅前の「 Bistro Bonheur 」さんで食事をした。
 車中泊。

2026/05/12
◇「飛瀧
神社(那智の滝)」
 早朝に到着し「那智の滝」をひとり占めにした。
 その威容をひとり仰いでいた。

「銚子口に張られた注連縄」


 落下する水に “いのち”を感じていた。 一刻も滞ることなく、永遠の今を生きる “いのち”である。
 滝の示す方向は地球の中心である。質量あるものは皆 地球の中心を目指す。この一点にすべては収束し、この一点ですべての人・ものとの出会いがかなう。
「お滝拝所」から間近に見る滝は勇壮だった。

 白川静『初期万葉論』中公文庫
「第一章 比較文学の方法 二 発想と表現」
「前期万葉の時代は、なお古代的な自然観の支配する時期であり、人びとの意識は自然と融即的な関係のうちにあった。自然に対する態度や行為によって、自然との交渉をよび起こし、霊的に機能させることが可能であると考えらえていたのである。
(中略)
 自然との交渉の最も直接的な方法は、それを対象として「見る」ことであった。前期万葉の歌に多くみられる「見る」は、まさにそのような意味をもつ行為である。
(中略)
「見る」ことの呪歌的性格は、「見れど飽かぬ」という表現によっていっそう強められる」(15-17頁)
(註)「呪」の語源は「祝」であると白川は書いている。「呪」の字は「いのる」とも読む。「呪能」と同義で「呪鎮」と書くこともある。
 ひとり「見れど飽かぬ」時間を過ごした。

 何人かの方たちが参拝にこられ撤収した。
 熊野三山のひとつである「熊野那智大社」には参拝しなかった。

◇「補陀洛山寺(ふだらくさんじ)
 まずはじめに「渡海上人」のお墓をお参りした。
 その後「御本堂」に参拝に行くと、


突然 職員の方に、「英語を話せませんか」と話しかけられ、戸惑った。
 オーストラリアから「熊野古道」を歩きに来ました、というご夫妻が、ホテルに忘れ物をして困っていらした。
 私の車で、「補陀洛山寺」-「亀の井ホテル 那智勝浦」間を往復し、忘れ物は無事 ご夫妻の手にもどった。
 車中で「Goole Translate」を、ダウンロード・インストールしていただいたが、運転中につき、あまり役に立たなかった。終始 おぼつかない英語しか話せず、もどかしく、恥ずかしかった。
 メルボルン在住で、ご主人は小児科医とのことだった。
 別れ際に記念撮影をし、奥さまから、手作りのハートの形をした「お守り」をいただいた。


「熊野古道はすばらしい」としきりに話されていた。立派な心がけである。
「補陀洛山寺」は、「熊野那智大社」,「那智山青岸渡寺(せいがんとじ)」,「飛瀧神社(那智の滝)」を巡る起点となっている。熊野古道 随一の人気のあるコースである。私には、三時間あまりの行程を歩き通す自信はない。

以下、
です。すばらしいサイトです。

「補陀洛山寺」については、
◆ 辰濃和男『歩き遍路―土を踏み風に祈る。それだけでいい。』海竜社
(127頁)で知った。そして、
◆ 井上靖『井上靖短篇名作集』講談社文芸文庫
「補陀落渡海記」
を読んだ。

「補陀洛山寺」については、
をご覧ください。

◇「道の駅 奥伊勢木つつ木館」
2泊目である。
三瀬谷駅近くの「大黒屋」さんで食事をした。

2026/05/13
◇「瀧原宮」
 三度目の参拝だっだ。今回も、早朝の「瀧原宮」には人気がなく、清々しかった。

「若宮神社」

「長由介(ながゆけ)神社(川島神社)」

◇「二見興玉神社(ふたみおきたまじんじゃ)」
「内宮」,「外宮」,「二見興玉神社」と、逆順での参拝だった。
「御本殿」は美しくお祀りされていた。


「夫婦岩」に張られた


「大岩・小岩を結ぶ大注連縄は「結界の縄」と称され、夫婦岩の向こうを(の?)海の彼方にある「常世の国」からの常世神を始め神々が最初に下界に寄りつく聖なる場所とされてまいりました。」
 「大注連縄」は、「常世(とこよ)の国」と「現世(うつしよ)」を分つ「結界」であることを、はじめて知った。

◇「おかげ横丁・おはらい横丁」
 お土産ものを買いに行った。
「赤福本店」
「赤福餅」
「白餅黑餅」
「宇治園」
「伊勢茶 新茶」
「名産味の館」
「播田屋 絲印煎餅 袋入り」
 裏書には、
「絲印とは、室町時代以降、当時の中国からわが国に輸入された生糸に添付されていた銅印のことをいい、小さな鈕(ちゅう)のついた印である。
 この輸入生糸の一荷には必ず銅印一個をつけ、わが国に到着した後、その斤量をあらため、受領証書にこの印を押して取引の証とする優雅な風習があった。
 しかも、一荷毎につけてある印は、印面も形もそれぞれ異なり、印文も取引用語を抜きにして、弄花吟月、愛春惜秋などの風流語や、判読しにくい謎のような文字、絵、文様などが風雅に表されていた。
 また、鈕には人物、動物などを鈕出し、意匠も種類も雑多で、明(みん)時代の精巧な鈕金術をそのままに、小さいが当時の工芸美術品の代表的なものと世界に誇ることが出来る。
 太閤秀吉もこの絲印を愛し、公文書に押す自らの朱印も幾つか秘蔵していた中の、最珍品を用いたと伝えられている」
と記されている。由緒ある銘菓である。

  その後、13:40 発の「伊勢湾フェリー」で伊良湖に向かった。
「神島」の島影を見ると、旅の終わりを感じた。