TWEET「病気療養中につき_09」

 2023/02/17「まひろ皮ふ科クリニック」さん受診時には、
「ぜんぜんいいですね」
と真弘(まひろ)先生に笑顔で言われました。8回目の受診時でのことです。(帯状疱疹が)快方に向かっていることは自覚しているものの、いぜん軟膏を塗布する際には、塗り薬をつけたガーゼが患部に触れると、刺すような痛みが走る箇所が幾つかあります。
 いつ完治するのでしょうか。桜の花ころか、新緑の季節か、と思っています。

 最近、せっかくの覚書きである、ブログを読んでいる。たとえば、検索窓に「良寛」と入れて検索すると、ブログ内を横断し、「良寛」に関する項が串刺しにされて現れる。横断的読書法である。書き散らしたブログがひと所に集約される。
 重複した文も多くみられるが、一話完結のブログにあっては仕方のないことである。
 以下、覚書きの覚書きである。


白洲正子『現代日本のエッセイ 明恵上人』講談社文芸文庫
「仏法に能く達したりと覚しき人は、いよいよ(くの字点)仏法うとくのみなるなり」(「遺訓」124頁)
「我れ常に志ある人に対していふ。仏になりても何かせん。道を成じても何かせん。一切求め心を捨てはてて、徒者(いたづらもの)に成り還りて、ともかくも私にあてがふことなくして、飢え来たれば食し、寒来れば被(かぶ)るばかりにて、一生はて給はば、大地を打ちはづすとも、道を打ちはづすことは有るまじき」(125頁)

『墨美 山本空外 ー 書論・各観 1979年7月号 No.292』墨美社
「(竜樹の説くように)仏教要語のすべてにわたって、これを一辺としか認めず、したがって仏・菩薩・菩提・般若波羅蜜までもこれを一辺として、どこまでも『無量般若波羅蜜の相』に迫らなければやまない」( 41頁)

 明恵上人の言葉にしろ、竜樹の、また空外先生の言葉にしろ、ともに味わい深い。
 喉もと過ぎれば、それらは方便にすぎなかった。
 真理とは身辺にあった。明恵上人にとって、それは生活信条だった。
 行き着く先を、私たちはよくわきまえておく必要があると思っている。

白洲正子「吉越立雄_梅若実『東岸居士』2/4」
「吉越立雄(たつお)能の写真」
白洲正子『夢幻抄』世界文化社
「変ないい方だが、お能はお能にも執着してはならないのだ」(120頁)

井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』岩波新書
「しかし考えてみれば、自我が無化したといっても、その無化された自我の意識そのものが残存している限り、無もまた一種の『他者』であるわけですから」(166頁)、「無もまた無化され」なければならず、また、「仏教でもよく『空』が現成したところで、その『空もまた空され』なければならないなどと申しますが」(166頁)
「無の無化」,「空の空化」が達成されたとき、はじめて自我の意識が完全に消失する。

TWEET「無欲という欲、また禁欲という欲」
 昨日 車を運転中に、「無欲という欲」ということを思った。「無欲」とは、ことさらなものではなく、「無欲」も「欲」のうち、ということである。それはあまたの「欲」と同列のものであって、「無欲」だけが突出して評価されるものではない、ということである。「禁欲という欲」についても然りである。
「無常という常」、「無明という明」、「無為という為」、「無知という知」、「無私という私」、「無用という用」。
「不・無・非・未」等の接頭語をもつ熟語群がある。
「不易という易」、「非俗という俗」、「未生以前という生」。
 これで一つ言葉の整理がついた。これも然り、あれも然りということである。