「もう幾日か夜空を渡れば」

 静かな夜です。 
 明るい月が南の空にかかっています。もう幾日か夜空を渡れば名月です。危うく見逃すところでした。
 李白を思うにつけ、白洲正子を読むにつけ、思うのは仲秋の夜の舟遊びのことばかりです。


「ツキヨミの思想」
白洲正子『夕顔』新潮文庫
ただ詩歌の世界ではなくてはならぬ存在であり、月の運行、或いはその満ち欠けにによって、どれほど多くのことを我々の祖先は学んだか。古典文学だけではなく、日常の生活でも「十三夜」、「十五夜」は申すに及ばず、月を形容した言葉は枚挙にいとまもない。月を愛したことでは日本人にまさる人種はいないであろう。(234頁)


「幻の山荘 - 嵯峨の大覚寺」
白洲正子『私の古寺巡礼』講談社文芸文庫
 いくつぐらいの時だったろうか、大沢の池に舟を浮べて、お月見をしたこともある。最近は仲秋の名月の夜に、鳴りもの入りで船遊びを行うと聞くが、そんな観光的な行事ではなく、極く少数の物好きが集まって、ささやかな月見の宴をひらいたのである。その夜のことは今でも忘れない。息をひそめて、月の出を待っていると、次第に東の空が明るくなり、双ヶ丘(ならびがおか)の方角から、大きな月がゆらめきながら現われた。阿弥陀様のようだと、子供心にも思った。やがて中天高く登るにしたがい、空も山も水も月の光にとけ入って、蒼い別世界の底深く沈んで行くような心地がした。ときどき西山のかなたで、夜鳥の叫ぶ声が聞えたことも、そのすき通った風景を、いっそう神秘的なものに見せた。(152頁)

 秋麗の候、静謐の秋を願うばかりです。